タイトル

説教要旨

◇2021年9月19日 使徒7:1-16 「のがれ出て、わたしを礼拝する」
「あのナザレ人イエスはこの聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう」とステパノが語ったという驚くべき偽証の中、四面楚歌、針のむしろの中、人々がステパノに目をやると、彼の顔は天使のように見えました。輝いていました。
「神殿と律法」。イスラエルの民族と神は共に歩まれ、モーセに十戒を与え、ソロモンを通して神殿を与え、神様はご自身の民を出エジプトの奇跡と共に力強く導かれました。しかし、民の心はいつも迷い、乱れ、そこにいつもあったのは神様の憐れみと忍耐でした。イエス様はマタイ9:13でこういわれました。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」 この引用元はホセア書6:6で、こう書いてあります。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
神様は慈しみと愛とを知らされ、人は自らの無力を神様の前に認め、苦難、困難の中で無条件に助けたもう神様の御助けを喜んで受け入れればよいものを、そのために遣わされたイエス様をねたんで拒み、十字架につけてしまいました。神殿よりも律法よりもはるかに優れた神の子を、人はその手にかけてしまったのです。しかし神様は人を罪から死から逃れさせ、神様の前で礼拝することを得させて下さいます。常に悔い改め、神を知ることを更に願いましょう。 

 

◇2021年9月12日 使徒6:8-15 「恵みと力、知恵と御霊によって天使のように」
ステパノが表舞台に登場します。前の個所では、彼は使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、食事の配給の働きのために召された執事であったのですが、彼が堂々と民衆の中で証しをし、最高法院に立つ姿を見ることになるのです。神様の召しは私たちが捉えつくすことが出来ません。恵みと超自然的な力に満たされ、彼はめざましい奇跡としるしを行いました。
そして今日の個所で彼について見ることといえば、「知恵と御霊とで語り」、「彼の顔は、ちょうど天使の顔のよう」であったということです。
後はすべて、この恵みと力に満ちて奇跡としるしを行い、知恵と御霊で語り、顔がさながら天使のように輝いていたこの人に対して議論し、対抗できず、人々をそそのかし、扇動し、彼を襲って捕らえて、偽証人を連れてきて、裁判にかけるという、神様のお働きに盾ついた人たちの言動です。
神様は、ご自身の忠実な僕を、今日も恵みと、超自然的な、理解も解明もできないような力に満たし、目覚ましい奇跡としるしを行わせ、知恵と御霊によって語らせてくださいます。その存在はさながら天使のようであり、その顔は輝いている、そういう者としてお用い下さいます。周囲の騒音がどのようなものであっても、どんなにその力が大きくとも、その働きかけが多くて押しつぶされそうであっても、恐れることはないのです。嘘とまやかしでしか対抗できない、悪に操られた世の勢力をもその流れをも恐れることはありません。なすべきことを行い、語るべきことを語りましょう。

 

◇2021年9月5日 使徒6:1-7 「神の言はますますひろまり」
ここに、「ギリシャ語を使うユダヤ人」と「ヘブル語を使うユダヤ人」が登場します。前者は「離散したユダヤ人」であり、古くはアッシリアやバビロンの捕囚に端を発し、パレスチナから散らされて外地で生まれ育ったユダヤ人で、彼らはギリシャ語を使いました。この人たちと、パレスチナに生まれ育ってヘブル語(アラム語)を話すユダヤ人との間に確執が起こります。それはやもめへの日々の食べ物の配給の事でした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちは多少下に見られていたのかもしれません。
弟子の数が増えるにつれて起こる問題に対して対処を迫られた十二使徒は言いました。「神の言をさしおいて」携われないから、人を立てて「もっぱら祈りと御言のご用にあたることにしよう」。「祈りと御言のご用」とは、礼拝と宣教の事です。
「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」、「信仰と聖霊とに満ちた人」たちは、背景の違う、言葉や文化の違う人たちの間に入り、間を取り持ち、確執を取り除き、主の群れの一致のために邁進しました。弟子の数が増えるにつれて、数々の問題が起こりますが、それに対処する人たちが群れの中から選ばれ、解決し、使徒たちによる神の言葉のご奉仕が守られ、礼拝とみことばの宣教が前進する時、神の言葉はますます広まり、大勢の祭司たちでさえ信仰を受け入れました。教会は、時にその成長を阻害するような困難と課題を抱えますが、会衆の中からふさわしい人が立てられ、乗り越えていきました。信仰と聖霊による執り成し手を今日も教会は必要としています。

 

◇2021年8月29日 使徒5:27-42 「神から出たものなら止められない」
「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。…なんという事だ、エルサレム中にあなた方の教えを氾濫させている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。」と、大祭司は語りました。彼らは目の前の尋常ならざる状況に恐れながら、その氾濫を止めようと、自分たちを責める声から逃げ切ろうとして躍起になっているように見えます。
使徒たちは言います。「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」 ここにはっきりと福音が、「良き知らせ」が述べられています。それは、人の罪過ちをはっきりと示しながらも、神様の重点は「悔い改めさせて罪の赦しを与える」ということです。 それなのに、救いのメッセージが語られているのに、祭司長ら、これを聞いた者たちは自分のプライドの事ばかり考えて、自分が赦されるべき罪びとと認めることが出来ず、「激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思」い、再びイエス様を十字架につけたのと同じことを繰り返そうとするのです。
そんな中、知恵に満ちたガマリエルは語ります。「しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。」そうです。神様によって立てられた彼らを止めることは誰にも出来ないのです。


◇2021年8月22日 使徒5:17-26 「立ち、命の言葉を語りなさい」
先週のアナニアとサッビラの出来事では、恐ろしいような神様の峻厳さが記され、サタンの虎視眈々と人の内に入り満たして惑わす働きを見ました。しかし弟子たちはますます聖霊に満たされ、主はその弟子たちの手にご自身の御手を添えられ、多くのしるしと不思議な業を行われました。
これを見て、大祭司と仲間の者、最高議会はどのように行動したのでしょうか。それは「嫉妬の念」に駆られて「立ち上がり」彼らを迫害することでした。洗礼者ヨハネを投獄し首をはね、主イエスを十字架につけたのと同じように。
「ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った。『さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい』」大祭司たちはどんなに権威と力を尽くして立ち上がって主の弟子を獄に入れようとも、脅して語らせまいとしても、主の弟子たちが立ち上がって命の言葉を語ること、すなわち全ての人の贖いとして十字架に死に、復活されたイエス・キリストを証しすることをとどめることは出来ませんでした。
失望の獄中の夜は、主の働きによって希望の朝に変えられます。そしてからの墓ならぬからの獄がそこにはあります。権力者の嫉妬は、困惑と恐れに変わって行きます。
人の力も、迫りくる恐怖も、状況の悪化も、いかなる獄も私たちには通じません。ただ人を死から復活させることのお出来になる方を畏れ、信じ、立ち上がって今週も、この方の「命の言葉」をお伝えしましょう。

 

◇2021年8月15日 使徒5:1-16 「人を苦しめる悪霊、命を与える御霊」
今日の聖書の個所はホラー小説のような不気味さをたたえています。3節「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか?」とありますが、前半を直訳すれば、「なぜサタン(悪魔)はあなたの心を満たしたのか?」という意味になります。勝手にサタンが心を満たしたわけではありません。押し入って、征服したのではありません。「どうぞどうぞ」と歓迎したから、サタンは心を満たしたのです。そしてその向かわせる先は聖霊を欺くこと、神を欺くことです。
私たちが、全てお見通しの神を欺くことは出来ないのに、悪魔に満たされた心は無知蒙昧の果てに神の聖い霊を欺きます。虚偽を語り、ごまかし、不真実を語ります。言い逃れが出来ると思い込んでいるのです。神を神と思わない不遜の心で満ちているのです。聖霊が私たちの心の内におられ、私たちに真理と命を授けようと執り成しておられるのに、それを一笑に付して、それを欺くことを図って止めない、そういう心、主の御霊を試みる(9節)心、主を軽んじたとしても何の罰が下ろう、試してやれ、という不遜極まりない心が人の心にはあります。
「大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まって来た」(16節)こうありますように、汚れた霊は人に満ちて人を狂わせ、神を侮らせ、人の人生を台無しにして、用無しにし、生きた屍のように力無い者とし、苦しめます。そんな悪霊に目を留めず、聖霊を賜る主イエス様を受け入れて進み続けましょう。

 

◇2021年8月8日 使徒4:32-37 「慰めの子らにあらわされる神の御業」
「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして…」と書いてあります。これは意志と感覚、そして精神(スピリット)を一つにしていたとも言えるでしょうか。オリンピックの試合が続けられていますが、一人一人の個性が異なっても、思い、考え、心を一つにして、心の奥底の価値観と言いますか、魂を一つに通わせて、一つ家族のように阿吽の呼吸で進む大切さを感じます。
信仰を共にする群れが、共に暮らす家族のようになり、家族同士が必要のために互いの持ち物を分かち合うように、ちょうど出エジプトの時のマナを分かち合うように、日々の必要のために分かち合っていた出来事に、その結びつきの強さを知り、心打たれます。
そんな信仰共同体である教会に、神様は祝福を与えられ、使徒たちは「主イエスの復活について、非常に力強く証し」することとなり、「大きなめぐみが、彼ら一同に注がれ」ました。

 

「使徒たちの足もとに置く」ということは、教会にささげるということです。そして教会の交わりの中で、必要な人に富が分配されていきました。神様の御用のために仕え、祈り、奉仕することと、信じた者の群れが助け合うということが、同時進行的に進められていきました。こうして心通い合う群れを通して神様はその御業を現されました。バルナバは「慰めの子」と呼ばれ、後にパウロを群れの中に積極的に招き入れ、パウロと共に世界宣教をしたり、働きを放棄した者を再びかかえたりしましたが、その根底には彼の捧げ、助け合う心がありました。

 

◇2021年8月1日 使徒4:23-31 「思い切って大胆に語らせてください」
今日の聖書箇所には、神様に確かに聞かれる祈りがあります。
それは1ヨハネ5章14節にこうある通りです。
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」
ペテロとヨハネは釈放されて後仲間の所に戻り、一切のことを語りました。それは詩篇2篇の通りの出来事でした。
「異邦人ら、もろもろの民、地上の王たち、支配者たち、ヘロデ、ピラト、異邦人、イスラエルの民」は党を組んで一緒になって、一致団結してイエス様を迫害して十字架につけたように、主の弟子たちにも脅迫を繰り返します。しかしそれは主によって知られないことではありませんでした。それはあらかじめ定められていたことでした。
主は相集い逼迫を受けるその状況の中で、主の弟子たちに祈ることを望んでおられます。状況に押しつぶされないで大胆に祈ることが出来るように導かれているのです。

 

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」 この祈りは聞かれました。その通りに聖霊の力に満たされ弟子たちは大胆に神の言葉を語り出しました。私たちにも神様の言葉を語らせまいとする力が働きますが、神様は私たちの祈りに答えて御力を現されるのです。

 

◇2021年7月25日 使徒4:15-22 「神に聞き従い、御名を語る」
エルサレムにて大祭司、役人、長老、律法学者たちが招集され、日本で言うところの国会兼、行政府兼、最高裁判所のような最高議会が開かれました。ペテロとヨハネは居並ぶ人たちに比べれば田舎から来た「無学な、ただの人たち」でしたが、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」とのその大胆な話しぶりを見て人々はびっくりしました。イエス様が共におられ、聖霊によって励まして下さり、彼らは立派に行動しました。
さて立派な先生方はペテロとヨハネに退場を命じてから協議しましたが、彼らは弱腰でした。いつも民衆を恐れ、自分たちの権威を失わないようにとの姑息な手段を協議するのみでした。脅してこの御名で話さないようにと命じましたが、イエス様の権威によって進むペテロらにその脅しは聞きませんでした。逆に権威者たちの弱点は見抜かれていました。
「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」
権威者たちは腹いせに、ペテロらをさらに脅すしか方法はありませんでしたが、その働き虚しく、「著しいしるし」、生まれつき足が不自由で40年以上にわたり苦しんだ人にあらわされた「そのしるし」は、人を恐れずに神を畏れる弟子たちによってますます現されるところとなったのです。「イエスの名」が今日もこの「しるし」を引き起こすのです。

 

◇2021年7月18日 使徒4:1-14 「イエスと共にいた者」
「美しの門」で起こった出来事は、今もなおその波紋を広げていました。人の知恵では考えられないことが神様の力によっては起こる、それがイエス・キリストの御名による癒しでした。それは人々に捨てられ、十字架につけて殺されてもなお、神様は死人の中からイエス・キリストをよみがえらせ、隅の頭石とされました。建物の基礎となる大切な石とされた、父なる神様による出来事に基づくものです。
この、人からは捨てられても、神様の力によってよみがえり、立ち上がったイエス様の御名は、私たちがじっと見つめ、いつも頼みにするべき御名であり、「この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」という御名なのです。

 

祭司たち、律法学者たちはペテロらがこのイエスにある教えを説き、その復活を宣伝することに大変悩まされ、心を苛立てていました。このことを語られることが不都合であり、蓋をしようと取り囲み、真ん中にペテロらを立たせて尋問しました。「お前はいったん何の権限によってそんなことをしているのか」と。しかしペテロは聖霊に満たされて言いました。どうして病人に良いことをして責められるのか、あなた方はイエス様を殺したが、神はこの方をよみがえらせた。そしてその神の力によって、その御名によって私はこのことをしたと。聞く人たちは無学なただの人がここまで大胆に語るのを見て不思議がりました。しかし彼らがイエス様と共にいた者であるということだけは確かな事だったのでした。

 

◇2021年7月11日 使徒3:17-26 「あなたがたは預言者の子」
「まず最初に、真っ先に、一番重要な事として、神様は、あなた方のために、しもべを立て、悪を取り除き、よこしまと邪悪から立ち帰らせる過程においてあなたを祝福するためにキリストイエスを送って下さった」とのペテロの言葉が胸を打ちます。
この恵みを神様は古くから「予告しておられ」、「あらかじめ定めて」、「昔から預言したおられ」、「この時のことを予告」しておられました。人の罪のための「キリストの受難」は初めから多く預言されていました。この赦しと恵みが初めからあったのだから、弱さのゆえに、あなた方の指導者たちと同様、「知らずに」、無知のゆえにしでかしてしまった過ちについて、すなわちいのちの君を十字架につけてしまったことについて、悔い改めて本心に立ち返りなさい、心を入れ替えて、心の向きを変えて、生き方を変えて進みなさい、滅びに向かう無知の心を捨てて人の進むべき本心に立ち返り、罪をぬぐい取って頂き、主の御前から来る慰め、元気の回復を得て、心の奥底からの力付けを得て進みなさい。神様はあなた方のために、祝福にあずからせるためにキリストイエスを遣わして下さったからと、聖書は優しく語り掛けます。
「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」、この祝福は私たちにとどまるものではなくて、地上のすべての人に受け継がれるべきものです。私たちが留めおいていてはならないものです。
「あなたがたは預言者の子」。モーセが苦役から民を解放したように、私たちも祝福の子として世にあって輝く者なのです。

◇2021年7月4日 使徒3:11-16 「いのちの君、イエスの御名」
時に、「困ったことがあったら、私の名前を出しなさい、そうすれば助けが得られるだろう」という有力者の一言に助けられることがあるかも知れません。大企業の受付で、その人の名刺を差し出せば、社長室へ通していただけることもあります。
パウロは、「イエス様のお名前」に信頼しきっていました。彼は、イエス様がどのようなお方でいらっしゃるかを熟知していました。彼は、金銀にはより頼まず、金銀の力を超える働きが出来ると信じ、このお名前を出して、生まれながらに足の利かない男性を癒しました。この癒しの力の源は彼には無く、このお名前にあったということは明白でした。
アブラハム、イサク、ヤコブの神がイエス様に特別な栄誉を与えられ、人としてあるイエス様に特別な示しを与えられたにもかかわらず、イスラエルの人たちはこのイエス様を拒み、いのちの君を、いのちの創始者を、いのちの原作者を殺してしまいました。到底許されない大罪を人間は犯しました。自らがいのちの道を摘み取ったのです。
しかし神様はこのイエス様を死人の中からよみがえらせました。弟子たちはその証人でした。
力あるイエス様の御名を信じるということ。どんなに苦難に満ちた、絶望的な状況でもこの名を信じるということが私たちに問われています。この御名は人を力づけ、癒し、立ち上がらせます。イエス様のゆえの信仰は、本当に力強い助けを生み出します。ですからこの名を拒む者ではなくて信じる者でありたいと願います。

 

◇2021年6月27日 1コリント12:12-27 「一つのからだとなるように」
今日は少し使徒行伝から離れ、「教会」について考えたいと思います。とはいえ、内容は使徒行伝と連続しています。「一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」とあるからです。
教会の誕生日としばしばいわれます、あのペンテコステの出来事、恐れおののいていた弟子たちが習ったこともない言葉で神様の偉大な御業をほめたたえ、キリストの証人として世界に飛び出したあの出来事は、教会にとって大きなことでした。彼らに聖霊を与えることを約束しておられたイエス様の言葉は正しく、イエス様が神様から遣わされた方だということは明らかになったからです。
共に御霊を飲んだ者は一つ体の各部分だと今日の聖書は語ります。共に「キリストにあずかる」ということは、同じかしらを頂くということであり、それは同じ体になるということを指すと聖書は語ります。
体の成り立ちを考える時、それは、「いらない部分はない」ということです。体に表に良く見える顔の組織など、麗しい部分もあれば、誰にも見られることのない足の裏のような部分もあります。しかしすべてが大切な部分であり、優劣を語ることに意味がなく、調和し、いたわり合い、分裂がなく、ともに悩み、ともに喜ぶ、一つ体となるように、共生と調和の霊が与えられていると聖書は語ります。
私たちはこの御言葉を頂かなければ、しばしば一つとなりがたい弱い存在であることを悟り、主に求めたいと願います。

 

◇2021年6月20日 使徒3:1-10 「わたしたちを見なさい」
私たちの人生にとって最も大切な気づきとは何でしょうか。家族や友を大切にし、健康に留意し、骨身を惜しまずに働いて、チャンスを得ること…。いろいろと人生には大切な気づきがあると思います。
ペテロは美しの門で施しを求める男性に、「わたしたちを見なさい」と言いました。これは「私たちに気づき、私たちを発見し、見つけ出しなさい」という意味です。
期待を持たせて何を言うかと思えば、「金銀は私には無い」との言葉でした。何を大仰な、はったりを言うような人たちだとがっかりしたかもしれません。しかしその後が奮っていました。「しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
「歩く」とは、ギリシャ語で動き回るとか、生きるとか、自分の身を処するという意味があります。
この男性はいつも、人通りの多い神殿の門まで抱えられ、おいてもらって物乞いをして、生計を立てていました。施しを受けるのが彼の生きる道でした。しかしペテロはそれに勝る道を彼に与えました。それが「ナザレ人イエス・キリストの名」でした。
彼は足とくるぶしがたちどころに強くなり躍り上がって立って「歩き出し」ました。彼には、新しく自分の身を処するすべが与えられたのです。それがイエス・キリストによる生き方でした。様子を見ていた人々もそれと気づき、そこに人生を分ける意味を知って大変驚きました。

 

◇2021年6月13日 使徒2:43-47 「よろこびと、まごころをもって共に」
ペテロが熱弁をふるい、イエス様こそは、王ダビデが畏れ主と呼んだ方、父なる神が「黄泉に捨ておかず、その肉体が朽ち果てることがない」と言われた方、その通り3日目によみがえり、父のみもとに昇られ、約束の聖霊を与えて下さった方、その復活も、聖霊降臨の様子をも確かに見たあなた方は、神が主として立てたこの方を十字架にかけたあなた方は、なぜ今もなお、否み続けるのかと語りました。
「この曲がった時代から救われよ」この言葉に多くの人たちが導かれました。一同はひたすら教えを守り、信徒の交わりをなし、聖餐を共にし、祈りました。ここに教会の原型があります。
彼らの内にいつも神様は共におられ、彼らには神様の臨在による聖なる恐れがありました。神様は共におられ、多くの奇跡としるしを与えて下さいました。彼らは一つ心で共に住み、家族のように持ち物を分け合いました。
そして彼らは日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし礼拝し、家では聖餐をなし、賛美をし、いつも神様と共に生きました。そんな彼らは、この上ない非常な喜びと、子供のような素直さ、純真さ、謙遜な心でいました。こんな彼らは好意を持たれ、その共同体を求めて日々仲間が増えました。現代の時代はこの時よりもはるかに複雑であるように思われがちですが、決してそうではありません。この純真さ、一途さが、今日もなお求められているのです。

 

◇2021年6月6日 使徒2:24-42 「この曲がった時代から救われよ」
聖霊降臨の時、弟子たちは霊が語られるままに、それまで習ったこともない外国の言葉で、それぞれが神の大きな働きを語りました。
それを聞く人たちは「いったい、どういうわけなのだろう」と驚き怪しみました。
人には理解できないことが起こり、弟子たちは賛美の舌を頂いて、世界広しの、多くの人々に語り掛けうる言葉を得たのでした
。まさにそれは「地のはてまでわたしの証人となるであろう」と語られたイエス様のお言葉の成就でした。
そして今日の個所で、ペテロは大胆に霊によってイエス様のことを証しし、語ります。
ユダヤ人たちが慕う王ダビデがどれだけ「わが主」を目の前に見、頼りとしたこと、「魂を黄泉に捨ておくことをせず、聖者は朽ち果てることがない」とこの主について預言し、
その主は神によって敵を制圧し、その敵の王の首を足台となす方であると語ったことを述べ、その主、神がメシア・救い主となさった他ならぬその主イエス様をあなた方が十字架につけたのですと、ペテロは迫りました。
聞いた人々は強く心を刺されました。どうしたら良いのでしょうかと口々に語りました。
イエス様という方は、全ての人にとって無縁な方ではありません。
この方を無きものとしようとする「曲がった時代」、しかし私たちはそれを曲がったままにすることなく、そこから逃れる道、救いの道をお伝えすることが出来るのです。

 

 ◇2021年5月31日 使徒2:14-23 「私の語ることを聞きなさい」
先週は聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を味わいました。すなわち、習いもせず語ったこともない言葉で、 聖霊が語らせるがままに、神様の偉大な御業をたたえたのです。これはまさに私たちのキリスト者としての 歴史そのものです。神様をかつては知らなかった私たちが、わが力によらず、ただ聖霊により、今習ったことも ないような麗しい祈りの言葉と証しの言葉で主のくすしき御業をほめたたえるようになったのですから。
そしてペテロは声を張り上げて語ります。「私の言うことに耳を傾けていただきたい」と。終わりの日、 主の霊がすべての人に注がれ、預言し、神を宣言し、主の幻を、志を、ヴィジョン(未来像)を見せて頂く、 そういう霊を授かったのだと。
天には救いによる守りがあり、奇跡と麗しさがありますが、終わりの時、地にはやがて裁きが来ます。
日は闇に、月は血に変わります。しかし主の名を呼び求める者は皆救われます。 「今私の語ることを 聞きなさい」パウロは霊によって確信をもって語ります。力と、不思議と、奇跡的しるしによって神様が 実証された方、神様の深い予知と計画とによって導かれたお方をあなた方が、あなた方が十字架につけて 殺したのだということをパウロは語りました。人に主を認めようとしない心があります。しかし、 キリストを信じ、救われて霊を受け、未来に向けて進む道があるとパウロは力説しました。

 

◇2021年5月23日 使徒2:1-13 「聖霊が語らせるままに」
五旬節の日。それは50日目の祭日との意味です。過越の祭りから50日目。この日は、大麦の収穫を終え、 小麦の収穫の始まる時、収穫のお祭りの時です。
イエス様は40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されましたが、過越祭の時に十字架にかかられ、 3日目に復活され、それから40日間とは、この50日目のペンテコステ、ということを考えますと、ほとんど ずっと彼らと共におられたと分かります。そしてついに出来事は起こりました。
弟子たちは主のお言葉の通りにエルサレムから離れずに共に聖霊を待っていました。そして五旬節の日、 突然に激しい風が吹いてきたような音が天からして、炎のような、分かれた舌が弟子たち一人一人の上にとどまり、 一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で語り出しました。この風の音は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語られたことを想起させます。 様々に分かれた言語を語らせるための舌を授けられ、彼らは聖霊が語らせるままに神を賛美しました。聞く人々は あっけにとられるばかりでした。どうしてそんなことが可能なのか。人には理解できないことも、 神様にはできるのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」 イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」
イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。


◇2021年5月9日 ヨハネ21:1-19 「わたしの小羊を養いなさい」
イエス様はまたも弟子たちにお姿を現されました。これですでに三度目。主はわが小羊を愛し抜き、 いつも時を、場所を共にしてくださいます。  「親の心子知らず」とは言いますが、何度も何度も来てくださり、 現れて下さるのに、弟子たちはこの度もそうとは気付きません。
ルカ5章の大漁の奇跡の時、夜通し頑張っても何も取れなかった時と同じ。すでに夜は明けていましたが、 弟子たちは事がうまく行かず、寂しい、寂莫とした気持ちでいます。
その白々としたガリラヤ湖の朝、朝もやの中、イエス様はまだ暗いうちから弟子たちを見守り、 湖畔に立っておられました。
「子たちよ、何か食べる物があるか。」優しい語り掛けがあります。これは直訳すれば「幼な子たちよ、 魚が何にもないんだろう?」です。主は弟子たちの空虚さ、心細さ、欠乏をすべてご存じです。主の元には 暖かな炭火があり、整った食べ物があります。主は私たちの養育者であり、牧者です。「わたしの羊」を 守り抜いて養ってくださいます。
主のみもとで子供のように喜んで魚を並べて数える弟子たち。このお方のもとに人の幸せがあります。    


◇2021年5月2日 ヨハネ20:24-31 「信じて命を得よ」
今日の主の言葉を味わいます時、主イエス様がどれだけ私たちが信じ続けることが出来るように思い図って いて下さるのかということを感じます。
信仰者と共に励まし合いながら集う時、主はその真ん中におられます。安かれと語り続けられます。
しかし私たちには様々の障害が訪れ、相互の交わりと礼拝から遠ざかる時があります。信じるための決定的な チャンスがあったのに、小さな障害のためにそれがふいになってしまうという、私たちは熾烈な、信じると いうことの戦いの中にあるとも言うことが出来るかもしれません。時に戦いに敗れ、信じることが出来ず、 心は千々に乱れます。しかし、主は信じられないその辛い思いを人知れず聞いておられます。
そして新たな信じるチャンスを与えて下さいます。
見なくては信じられない私たちに、初めから見ないで信じなさいとは言われずに、お姿を再びお見せになってから、 見ないで信じる者は幸いとおっしゃいます。私たちは神様の恵みにより、主にお目にかからせて頂きながら、 赦されながら成長させて頂き、ついには見ずとも信じ、信仰の命の中を益々と進み続けるようにと導かれるのです。

 

◇2021年4月25日 ヨハネ20:19-23 「あなたがたをつかわす」 弟子たちの恐れ、それはユダヤ人たちが師を十字架に上げて後、今度は自分たちを迫害するのではないかとの 恐れであったと思います。逮捕され、投獄され、死に引き渡されるのではないか…。先行きの不安です。
自分の望むようにいかず、苦しい方へ、破滅の方へ向かうのではないかとの懸念から、彼らは鍵をしっかりと かけて打ち震えていました。その弟子たちの真ん中に主は立たれ、繰り返し「安かれ」と語られました。
この「安かれ」との主の言葉は何を意味しているのでしょうか。挨拶でしょうか。気休めでしょうか。
主が語られたのは「大丈夫だよ、私がいつもそばにいて守ってあげるからね」とか、「私が敵を滅ぼしてあげよう」 ではなくて、「私はあなた方を遣わす」でした。かくまって、守ってあげるのではなくて、 敵地に遣わすということでした。それが「安かれ」との意味であったということに、驚きます。聖霊を受け、 敵である人々の罪を断罪するのではなくて赦すこと、これが彼らへの使命でした。
神の聖霊を受け、遣わされるということ、それはある意味赦しの権限を受けて権威ある立場としての就役のために 任命されるということでした。主はおびえる子供たちに新たな使命を与え、彼らを強められたのでした。 

 

◇2021年4月18日 ルカ24:36-53 「なぜおじ惑っているのか」
復活節の御言葉は、いつもと変わらずアップダウン、いや、ダウンアップです。
エマオの途上で起こったことを話し合っている時、その所にイエス様が現れました。恐れ驚いてと、 二つの驚きの、それも戦慄したという言葉が重ねられています。彼らは幽霊を見ていると思ったのです。
私たちが状況を見てそこから判断すること、そこにはしばしば間違いが伴います。イエス様は 「なぜおじ惑っているのか」、「どうして心に疑いを起こすのか」と、「なぜ」「どうして」と2回 言われました。惑い、疑い、恐れる時ではないのに、なぜあなたの心の中にそういう思いが、疑いが 立ち上るのか、どうして?と主は問われます。
イエス様はご自分の体をお見せになり、魚を面前で召し上がり、弟子たちを安心させました。
そしていつもの通り、キリストが苦しみを受けて死人のなかからよみがえり、悔い改めが起こり、 救いが世界に広がるという出来事を語り、あなたが証人となるのだ、そのために聖霊が下るのだと語られました。
彼らは大喜びしました。私たちの信仰生涯もいつもかくの如しです。恐れが容易に心を去来し、 御言葉に励まされ、私たちは喜びに満たされ、力を頂いてまた証しに励むのです。

◇2021年4月11日 ルカ24:13-35 「お互いの心が内にもえていたではないか」
主は私たちが途方に暮れ、悲しみ惑う時のために先んじて御言葉を幾度となく語り掛けておられます。
復活の予告しかり、ペテロの否認しかりです。しかし人は、容易に御言葉を忘れてしまいます。
そしていざ困難の状況の中にある時、哀れなまでに無力です。主の復活を「愚かな話(空虚なこと) のように思われた」とありましたが、困難の中、私たちは容易に希望を失ってしまいます。
エマオの途上、ここにも二人の弟子がトボトボと悲しそうに歩いていました。そこにイエス様が すっと伴われますが、彼らにはそれと気付きません。
「彼らの目がさえぎられていた」のです。何ものかに捕らえられるかのように、押しとどめられ、
抑え込まれてしまったかのように、彼らの目は本来の働きをすることが出来なくなっていました。
そして彼らは悲しそうに道端に立ち止まっていたのです。
「ああ、愚かで心の鈍いため…信じられない者たちよ」そしてイエス様がご自身のことを御言葉から 話されるとき、彼らの心が内に燃えました。彼らは新たな力を得、夕暮れの道を喜び勇んで
信仰の友との交わりに向かうのでした。

 

◇2021年4月4日 ルカ24:1-12 「お話になったことを思い出しなさい」
復活の主の御名をあがめます。
私たちは「ハレルヤ」とこの朝高らかに神様をほめたたえますが、2000年前のイースターの朝は 全く状況が異なっていたようです。
女性たちは、かいがいしくイエス様のご遺体に良い香りを添えようと出かけました。
「ところが」イエス様のお体は見当たりません。彼女たちは「途方にくれて」いました。
私たちの人生の中にも、途方に暮れる時があるでしょうか。茫然自失、定かでない、困惑の出来事、 これらは歓迎されるものではありません。
二人の天使が現れました。神様の元から遣わされた二人は、神様のおそばにある輝かしいまばゆい栄光に 輝いていました。そんな光を見たことのない女性たちは心底恐怖に襲われました。   
イースターの朝は、大変な朝でした。しかし天使の言葉はこうでした。イエス様が「あなた方にお話に なったことを思い出しなさい」、主の御言葉を思い出しなさいということだったのです。
私たちの困惑の時、途方に暮れ、恐怖におののく時、それは主の御言葉を思い出すべき時なのです。
女性たちは主のお言葉を思い起こし、すべては主が語られた通りだったと知り、ようやく喜んだのでした。

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