タイトル

説教要旨

◇2022年8月14日 ルカ8:40-56 「恐れることはない。ただ信じなさい。」
今年も召天者記念礼拝にご参加くださり、有難うございます。コロナ、戦争、物価高…、苦しいことが怒涛のように押し寄せ、先行きがいよいよ不透明に感じられるこの頃です。
今日の聖書の個所にも、イエス様の来訪を待ち受ける群衆の姿があります。実に色々な生きるにあたっての困難にあって、群衆は殺到して押し寄せ、イエス様を取り囲み、願い事をしていました。
齢たったの12歳で死に瀕している少女、その少女の人生のすべての期間と同じ時を闘病に過ごしていた女性。熾烈な困難を抱えた人たちがイエス様の周りに集っていました。
少女の父は一刻も早く、手遅れにならないうちにイエス様を家に、娘の所にお迎えしたいと思ってイエス様を先導しますが、あまりにも多い人たちがその行く手を阻みます。そうしているうちに立ち止まってご自分のお衣に触れた女性を探すイエス様。そしてついに、娘が亡くなったという知らせが舞い込みます。
肩を落とす父親にイエス様は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ。」「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである。」「娘よ、起きなさい。」娘は即座に立ち上がりました。
イエス様は十字架にかかられ、罪の世の中にある、人のすべての罪を引き受けて下さいました。そして主は死から立ち上がられました。この赦し主によって、私たちもまた、死から即座に立ち上がることが出来ることを信じましょう。

 

◇2022年8月7日 黙示録2:18-29 「わたしのわざを最後まで持ち続ける」
エペソにニコライ、ペルガモにバラムとバラク、そしてテアテラにイゼベル。教会の中にも偶像と不品行がありました。初めの愛の行いから離れさせ、教会を無力にしようとする諸々の働きがありました。
「あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。」それなのに。足元から少しずつ崩れて、大きな砂の城全体が壊れていくように、危険が教会に迫っていました。
「女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」良き存在として、預言者として近づき、信仰を骨抜きにしてしまう恐ろしい働きです。
「この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。…悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる」この偽預言者は多くの悔い改めの機会を与えられても悔い改めません。
「こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう」と主は語られます。
私たちは「土の器」のようにもろく弱いものです。「私たちの業」も色々な悪しき業に引き寄せられ、変質しかねません。しかし私たちは「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける」との主のお言葉にこそ望みを置きたいと思います。

 

◇2022年7月31日 ヨハネ2:12-17 「わたしに対する信仰を捨てなかった」
先週の個所では、主イエス様がスミルナの教会の苦難や貧しさを「知っている」と語られました。偽ユダヤ人達のサタンの会堂に属する者達に苦しめられ、悪魔はキリスト者を獄に入れ苦難を与えました。
今日の個所でも主は「知っておられる」とあります。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。」
またもやサタン、悪魔の存在です。ベルガモには多くの偶像があり、また皇帝崇拝の中心地でした。スミルナにしても、ベルガもにしても、様々な偶像礼拝のもと、悪魔に取り囲まれたキリスト者への迫害がありました。そのようなサタンの座の中にあって、「あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」それを見て、知っているよと主は語りかけられます。悪がはびこるままにはびこり、そこは「サタンの座」、苦しみと迫害の煮え湯を飲まされるその所にあって、しかしキリスト者は迫害を受けて十字架に死なれ、復活されたイエス様の御名を堅く持ち続けました。証しのゆえ殉教者が出る時にも信仰を捨てませんでした。「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」生けるパン、イエス様にある命に希望を得て進みましょう。


◇2022年7月24日 黙示録2:8-11 「死んだことはあるが生き返った者」
スミルナの教会。スミルナの街はエペソに並ぶ最も栄えた商業の街でした。街並みも美しく、海に伸びた大きな半島には良き港があり、その湾を見下ろす高台の丘には競技場がありました。
この黙示録が書かれてからおよそ60年後の紀元150年、使徒ヨハネの弟子であるポリュカリポスがこの競技場で火刑にされ殉教しました。
主がこの教会に、「初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者」と語られたことは、この殉教者のことを思う時、本当にぴったりの言葉であると思います。
「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)」 この「苦難」との言葉は、激しい苦しみ、重圧によって破砕されることを意味します。そして「貧しさ」とは、富んでいないという意味ではなく、全く無一物であるという事を意味します。その上にユダヤ人たちからの迫害のそしりに会い、にっちもさっちもいかない状況に陥っているが、あなた方は富んでいると主は語られます。

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。」かの競技場では一時に千五百人、また別の時には八百人もの殺害がありました。その苦難は十日の間。十は完全数ですが、三十日も百日も続く艱難ではないことが語られます。有限の、区切りのある苦しみを経たときに、あるいは獄死に至る苦しみがあっても、いのちの冠があり、死後永遠の命が待っています。

 

◇2022年7月17日 黙示録2:1-7 「いのちの木の実を食べる」
「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者」、これは主イエス様です。これは主イエス様による手紙です。2節と3節とは掛け言葉になっています。
「あなたのわざ」と「(業に疲れてうんざりして)弱り果てることがなかった」、「労苦と忍耐」と「忍耐し続け」、「悪い者たちをゆるしておくことができず(我慢出来ないと思い)」と「私の名のために忍びとおして(私の名のために我慢して)」となります 。繰り返しにより、「疲れず倦まず労苦をする」、「忍耐・堅忍」、「悪に対して我慢せず、主の御名のためには我慢する」の大切さが語られています。
3つの点についてお褒めに預かったエペソの教会でしたが、「初めの愛から離れてしまった」と言われてしまいます。アルテミスの神殿にもひるまず主イエスの福音を証しし、銀貨5万枚分の価値のある魔術の本は焼き払われ、大きな力支えによって生まれたエペソの教会も、40年の時を過ぎ、歴史を積み、経験を積み、偉大な教会とみられても、肝心の主の愛から離れてしまっては教会とは言えないとの言葉はわたくしたちの心に迫ってきます。「思い出せ」「悔い改め、心を変え、罪から向きを変え、人生の道を変え」、「実行する」、これがいつでもわたくしたちに必要なあり方であることを教えられます。

 わたくしたちの前には「命の木の実」があるからです。イエス様が呪いの木、十字架につかれ、私たちにいのちを得させて下さったのですから。

 

◇2022年7月10日 黙示録1:9-20 「七つの星と七つの金の燭台」
「神の言とイエスの証しとのゆえに」エペソから海路14時間のエーゲ海のパトモスに島流しされた使徒ヨハネは、「あなた方の兄弟」であると語ります。その歳90歳を超え、主の愛された弟子としてイエス様にまみえ、愛され、主の弟子としてひた走った大使徒は、「共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と言いました。
自分は特別に偉く、耐えているとも言わず、兄弟であるあなた方と共に、神の言とイエスの証しとのゆえにイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっていると言いました。
そんなヨハネは主の日、御霊に感じると、後から大きなラッパのような音と、呼びかける声を聞きました。
振り向くと、そこには七つの金の燭台。それは七つの教会を象徴し、その間、その真ん中に人の子がおられました。かしらと髪の毛は白くきらめき、目は燃える炎のよう、その足は炉で精錬された光り輝くしんちゅう、声は大水のとどろき、右手には七つの星、口からは鋭い諸刃の剣、顔は強く照り輝く太陽…。この威厳あるお姿は山の上の栄光の顕現の時のようにまばゆく、ヨハネは死人のようになって主の前にひれ伏しました。しかし主は彼に手を置いて「恐れるな」と語られました。そして「私は死んだことはあるが、見よ、代々限りなく生きている」と語られました。七つの星と燭台、それは教会とその働き人です。それ自体に光はありませんが、主に照らされ、教会も聖徒も輝きます。

 

◇2022年7月3日 ヨハネの黙示録1:1-8 「やがてきたるべきかた」
今日からヨハネの黙示録に入ります。2019年の12月のコロナウイルスの発現以来、2月24日のロシアのウクライナ侵攻以来、世界はこれまでに経験したこともないような劇的な変化にさらされているように思います。
「世界の終わり」とも思われるような不吉なことが起こりゆく中、風雲急を告げる中、ヨハネの黙示録は書かれました。これは「イエス・キリストの黙示」です。神様がイエス・キリストによって与えられた啓示です。
「すぐにも起こるべきこと」が起ころうとしている時、信じる私たちはどのような備えをすべきか。事柄はどのようになって行くのか。この時こそ、再びこの黙示の書、啓示の書を紐解きたいと願います。
「時は近づいている」から、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」とあります。この時こそ私たちは聖書の言葉に熱心に聞き、書かれていることを守り行い、進みたく願います。
「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた」、「わたしはアルパであり、オメガである」お方から目を離さず、この混乱と苦しみの時を生きていきたいと願います。
「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」
このイエス様にある者は、悲嘆することはないからです。

 

◇2022年6月26日 ヨエル3:9-21 「しかし主はその民の避け所、人々のとりで」
ペンテコステの日、ペテロの説教の中に引用されたヨエル書にちなんで1章から読み進めてまいりました。
「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」いなごの襲いかかる中、神様、主に帰れ、主は災いを思いかえされ、思いかえして祝福を残し、礼拝のための捧げものを残しておいてくださると主は語られました。主に立ち帰る道を主は残して下さいました。
諸国によって苦しめられ、裁きを受けた神の民でしたが、主の日、ここに神様による民の回復と諸国への神様の裁きが語られます。
「主はシオンから大声で叫び、エルサレムから声を出される。天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである。
『そこであなたがたは知るであろう、わたしはあなたがたの神、主であって、わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、他国人は重ねてその中を通ることがない。』」
「主はシオンから大声で叫び」、これはライオンが激しい勢いでほえる声であり、そのさばきの声に、今まで勢いのあった諸国の民も、天地も震えるとあります。そのように天地を従えさせる方が私たちの避け所であり砦であると語られます。知れ、私こそあなた方の神と主はお語りになられます。恵みと憐れみと慈しみにあふれるこのお方を信じて、今週も進みましょう。

 

◇2022年6月19日 ヨエル2:12-24 「主は災いを思いかえされる」
先週はヨエル書の1章を読みました。酒におぼれるように目に見えるものに酔いしれ、神を忘れる者たちのため、神様はいなごの大群を送られ、食べ物は絶たれ、祭壇にささげて神様を待ち望む供え物までも絶たれました。その時祭司に主は命じられ、泣き悲しみ、断食を布告し、聖会を招集し、主に向かって嘆きの叫びをあげよと導かれました。
「暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日」。1章にて、作物を荒らしていたいなごは、今度は人々の家に群れを成して押し入り、人々を苦しめます。「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」このような度重なる艱難の時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
「主は言われる、『今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け』。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」
ふたたび断食と聖会が命じられます。祭司は泣いて言えと命じられます。そしりを受けて「『彼らの神はどこにいるのか』と言わせてよいでしょうか」と。そして主はねたむようにして、その民を力強く救われます。そして「あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る」との御言葉が輝くのです。

 

◇2022年6月12日 ヨエル書1:1-10 「主よ、わたしはあなたに向かって呼ばわる」
聖霊降臨の出来事の後、ペテロはヨエル書を引用して説教を行いました。
地はいなごによる大きな損害を受け、食べる物がなくなり、宮にささげる物もなくなり、そこには喜びも楽しみもなくなり、民も祭司も嘆き、泣き、そうして主に向かって呼ばわる時、「すべて主の名を呼ぶ者は救われ」、主による回復といやしが与えられ、霊が注がれることを語りました。
主は民の目を覚ますため、いなごを送られました。それは今までに起こった事もないようなすさまじい被害をもたらすものでした。それはかつて頑ななエジプトの王をこらしめられた出来事を思わせます。
「老人たちよ、これを聞け。すべてこの地に住む者よ、耳を傾けよ。あなたがたの世、またはあなたがたの先祖の世にこのような事があったか。
これをあなたがたの子たちに語り、子たちはまたその子たちに語り、その子たちはまたこれを後の代に語り伝えよ。」この出来事から何を学ぶのか。この悲惨から何を学び、どう子孫に語り継ぐのか。「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。」災いから何を学び、その災いを、神様に向かって呼ばわり、向き直るための機会とするならば、聖霊の注がれる力と回復の時、飛躍の時を得ることが出来ます。

 

◇2022年6月5日 使徒2:1-13 「新しい酒に酔っているのだ」
「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた わが霊をしもべ、はしために注ぐ。…すべて主の名を呼ぶ者は救われる。」との預言者ヨエルによる預言は成就されました。
主はヨエルに託し、こうも言われました。「見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう。… 地よ恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたからである。」
ペンテコステの出来事を見た人々はあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言いました。「酒」について、ヨエル3章にはこうあります。「彼らはわが民をくじ引きにし、遊女のために少年をわたし、酒のために少女を売って飲んだ。…わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。

かまを入れよ、作物は熟した。来て踏め、酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪が大きいからだ。」この時の「酒」は、民の腐敗と裁きの象徴でした。民は腐敗と放蕩と罪の「酒」に酔いしれていました。しかし今、民に「新しい酒」がもたらされたのです。「酒に酔ってはいけない。…むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」(エフェソ5:18) 

 

◇2022年5月29日 使徒1:3-11 「父の約束を待っているがよい」
時と言いましても色々あります。何時何分という事。現代生活は分刻み、早い者勝ちですとか、しのぎを削って時を争うことがあります。もう一つには「時期」という時の考え方があります。早いか遅いか、いつ来るかは分からないけれども、「その時」はやって来るという考えです。作物など、何月何日と毎年かっきりとは決まっていませんが、ちょうど良い頃合いの時期が毎年定まります。
「インスタントカメラ(ポラロイド)」や「インスタントラーメン」など、私たちは「今すぐに」出来るという事を好みます。待っていたくないという志向がどんどん高まっています。ですから、弟子たちが「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と、時を気にすることが理解できます。しかしイエス様は、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と語られました。そして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と言われました。私たちはいつ、どういう状況で、私たちが欲しい者が手に入るかという事ばかり考えますが、神様は、良き物、約束されたものがあるから待ちなさい、国の復興、それも大事だが、神の国のことを思いなさい、それは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」広がり、あなたはそこで私の証し人となるのだと命じられるのです。

 

◇2022年5月22日 ルカ24:36-53 「聖書を悟らせるために心を開かれる主」
日曜日の夕方。イエス様はエマオの途上で弟子たちに近寄り、語りかけ、パンを割かれ、イエス様だと気づいた弟子たちは大喜びでエルサレムに取って返しました。そこにいた弟子たちも共に喜び、ペテロに主が現れた出来事を話し合いました。そうしていると、イエス様は彼らの真ん中にお立ちになり、「安かれ」と語られました。
「ああ主よ、ちょうどあなたと出会ったことを話していたところです」となったのかと思えば、彼らは恐れおののいて、幽霊を見ているのだと思いました。イエス様は言われました。「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」
私たちはどうしていつもこのような調子なのでしょうか。イエス様が近くにおられるのにそうと気付かず、自分の心配や不安や疑問ばかりを盛大に心の中に展開しているのです。主に明るく燃やしていただいてもすぐにまた冷え切ってしぼんでしまう心。あまりのその有様に、ついさっき出会った主のお顔も忘れて幽霊だと思ってしまうのです。
私の肉と骨を見て触りなさい。魚を食べる姿を見なさい。そしてまた主は御言葉から語られます。悟ることが出来るように彼らの心を開いて御言葉を語られます。私たちは心を開いて、不安や疑いを取り出して放り投げ、心の中に御言葉を頂き、主の贖いによる救いの中、力強く生きたいと願います。お皿の上を見ましょう。そこには主が召し上がった魚の骨が置いてあります。

 

◇2022年5月15日 ルカ24:13-35 「私たちと一緒にお泊り下さい」
主のお姿は見えなくても、主はいつも弟子たちと共におられました。そして必要なタイミングでお姿を現されました。
クレオパらはエルサレムからエマオの村へと歩いていました。道々彼らはイエス様の空になったの墓のことを話していました。イエス様が一緒に歩かれましたが、彼らはイエス様に気付きませんでした。
彼らは悲しそうな顔をして、悲観的で、憂鬱で、期待が持てないと、立ち止まって言いました。「ナザレのイエス、あの方は、わざにも言葉にも力のある預言者でした」「イスラエルを救うのはこの人であると、望みをかけていました」「ところが仲間である数人の女性が私たちを驚かせました」「御使いが現れ、『イエスは生きておられる』と告げ、果たして女性たちが言ったとおり、イエスは見当たりませんでした」この過去形の言葉の羅列は、彼らが新しい素晴らしい出来事を信じず、結果として過去につながれているがままであることを明らかにしていました。
「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」イエス様の溌溂としたお声が彼らの止まった時計の針を動かします。イエス様は御言葉からご自身のことを話されると、彼らの心は燃えました。彼らはイエス様を引き留め、乞い願ってイエス様と共に家に入りました。そうして彼らは気付きました。私たちも御言葉を蓄え、見えなくても共におられる主と共に溌溂と生きたく願います。

 

◇2022年5月8日 ヨハネ21:15-19 「わたしを愛するか」
イエス様は、「子たちよ」と言って舟の中の弟子たちに語りかけられました。主は彼らが空っぽの舟の中にいることをご存じでした。生きる悩み、現実の苦しみ、欠乏と恐れと不安…。イエス様はすべてをお見通しでした。トマスの信じたいが確信が持てないとの叫びをも、分かっていて下さいました。イエス様はシモン・ペテロに語られます。「私を愛するか」。若かった時には何でも自分のしたいがままに生きることが出来た。しかし年を取ると、自分の行きたくないところに連れて行かれる。そのための心の準備は出来ているか。そこまでしても、私に従い通すことが出来るか。そのようにして、私の大切な小羊を守り抜くことが出来るか。恐れと恐怖と迫害と、不安の中にあっても、私を愛し続けることが出来るか、従い通すことが出来るかと、イエス様は一歩一歩ペテロに心構えと決心を固めさせて下さっている、それがイエス様が三度までペテロに「わたしを愛するか」と問われた真意なのではないでしょうか。
「あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛するか」。彼はかつて、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と言っていました。彼には確固とした自負がありましたが、それはもろくも崩れ去りました。しかしイエス様は、何度ペテロが失敗しても、また新たに「わたしを愛するか」と尋ねて下さる、これは彼に機会を与えて下さることなのです。

 

◇2022年5月1日 ヨハネ21:1-14 「主であることが分かった」
先のことは分からない。それが私たちというものです。弟子たちは一生懸命、盛んに網を下ろして漁をしましたが、何も取れませんでした。しかし、しばらくして、その網がはちきれそうに魚で一杯になろうとは、そしてその網を下ろす湖の水の中にペテロ自身が飛び込むことになろうとは、そしてその虚しい朝が喜びの朝になろうとは、彼らは思いもしなかった事でしょう。
「子たちよ、何か食べるものがあるか」。いつも主が私たちの孤軍奮闘のさまを見つめて、「子たちよ」と熱い視線をもって見ていて下さるお方を私たちは人生の原点に据えているでしょうか。
孤独があります。困難があります。虚しさと疲労があります。飢えと欠乏があります。戦いと悲しみがあります。しかし、わたくしたちは、イエス様が、父なる神様が「子よ」と私たちを見ておられることを忘れずに進みたいと願います。ヨハネと共に、「主です」と、私たちの生活の現実の中に生ける主を見出すこ とが出来るようにと願います。
私たちが、数年前の私たちに何かを語る事が出来るとしたら、どんなことを伝えるでしょうか。先のことを心配しているね、でも大丈夫だから神様を信じて平安でいなさい、神様を信じて全力で精いっぱい信仰のうちに行きなさいと伝えるのではないでしょうか。
それにもまして今日、神様は私たちに語り掛けて下さいます。「私が主だ。子よ、恐れることはない」と。

 

◇2022年4月24日 ヨハネ20:19-31 「安かれ。私もあなたがたを遣わす」
先週は喜び溢れる主の復活をお祝いするイースター礼拝でした。しかし今日の聖書の個所では、戸にしっかりと鍵をかけて恐れおののく弟子たちの姿があります。「戸が閉ざされていた」この言葉が今日の個所に2回見られ、弟子たちの傷心が現れています。
しかしイエス様は二度までもその施錠され閉ざされた扉をかいくぐり、弟子たちの真ん中に立って言われます。
「安かれ」。平安、平和が、調和があるように。平安の風が流れて調和のハーモニーが奏でられますように。弟子たちの心は喜びにあふれました。
イエス様はその時、「あなたがたを遣わす」とおっしゃいました。この平和と安らぎのハーモニーは、私たちの共同体の中だけで閉じ込めているべきものではないのです。私たちは戸に堅く鍵をかけて、外界を恐れて隠遁すべき民ではないのです。
主は息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と語られ、私たちが罪を赦す使者として遣わされていることを伝えます。

そしてここに、祝福に乗り遅れたトマスがいました。皆が熱く語っても信じない、自分の目で見なければ信じない強情者でしたが、強く信じるためには確信(確証)が必要でした。彼は見て信じました。弟子たちはこの時もまた鍵をかけていましたが、恐れなく、命を懸けて家の外に走り出すときは刻一刻と近づいていました。聖霊を受け、世の罪が赦されるため、御子の名が信じられるように!弟子たちの躍動が始まります。

 

◇2022年4月17日 ヨハネ20:1-10 「死人のうちからよみがえるべきお方」
イースターおめでとうございます! イエス様のあのむごたらしいお苦しみを覚え、心が張り裂けるような気持でしたが、日曜日の朝とともに、主の遺体のあった墓は死の雰囲気が全くなく、復活の勝利の栄光に輝いています。次の聖書の言葉は、違わずに実現しました。
「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(詩篇16:10)
「それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。」(エゼキエル37:12-13)
百合の花は3月から4月に咲くことから、イエス様と、その復活を連想させる花とされてきました。長く寒さの中を耐え抜き、定められた時に力強く花を開かせる命の力強さを感じます。主の勝利のラッパを連想させます。
「わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」
(1コリント15:51-52)

 

◇2022年4月10日 ヨハネ19:23-37 「自分が刺し通した者を見る」
ついに受難週に入りました。渇き、憎しみとののしりと好奇な視線の渦の中に置かれ、衣服ははぎとられ、ローマの兵士たちの分捕り品となりました。しかしすべては詩篇22篇の御言葉の預言する通りでした。「同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、…彼らは…私の渇いたときに酢を飲ませました。」(詩篇69)
時は金曜日。過越の祭りの準備日であり、その日の日没からは安息日に入る時であり、また過越しの祭りの第一日となる日でした。
エルサレムの神殿では過越の祭りを迎える礼拝をし、神殿で過越の小羊が屠られたのがちょうどイエス様が十字架上で息を引き取られた午後三時頃でした。各家庭でもなされる過越の祭りでは、「その骨を一本も折ってはならない」との定めがあり、十字架上のイエス様のお身体も、骨一本折られずに、御言葉が成就するところとなりました。
ゼカリヤ12章にはこの御言葉があります。「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」
イエス様が十字架にかかられたのは、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」であり、そのために犠牲となって下さった方を、自分の罪のためと嘆き悲しみ、そのようにして「その刺した者を見る時」にその救いは成就するのです。

 

◇2022年4月3日 ヨハネ19:1-16 「カイザル以外に王はありません」
「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」という詩編69:4の御言葉は成就し、イエス様は迫害を受けられました。イエス様が語られた通り、弟子たちは悲しみに暮れ、散らされ、イエス様は一人取り残されます。しかしその悲しみの中にもイエス様は喜びと慰めの予告をしていて下さいました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネ18章、果たして弟子たちは散り散りに逃げ、一人イエス様について行ったペテロも3度まで主を否みました。弟子たちは全滅かと、悪魔の高笑いが聞こえるかのようです。
ユダヤ人の祭司長たちは、自らが本当にあがめるべきであるイエス様をピラトの手を借りて亡き者とするために躍起になっています。彼らは死刑に処する権限をローマ施政下に与えられていませんでした。
ピラトの目にはイエス様には何の罪も見いだされませんでしたが、ユダヤ人の祭司長たちは執拗にイエス様を死罪にしようとしました。
ピラトはイエス様の言葉に自分に勝る権威を感じ、助けようとしますが、民は「私たちには、カイザル以外には王はありません」とまで言ってイエス様を殺そうとしました。神の民が自らの主を捨てて理由なしに自らの神を憎み、捨てるという事はなんという悲劇でしょうか。人の徹底的な堕落の姿が表されています。その罪の為、主は自ら進んで十字架に着かれたのです。

 

◇2022年3月27日 ヨハネ16:25-33 「勇気を出しなさい」
先週は、「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」との御言葉を頂きました。私たちが帰るべき所、所属すべき所を指し示してくださいました。その後イエス様は弟子たちに襲いかかる迫害を予告されました。「あなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。」(16章2節)

イエス様は去って行かれ、そして大きな迫害の時がやってきます。これを聞いて弟子たちの心は憂いに満たされますが、イエス様はご自身が父なる神様のもとに行けば、弟子たちに助け主なる真理の聖霊が与えられるから益になると語られます。「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。」(20節) 産みの苦しみの後で誕生を見る時、苦しみは消えてなくなり、苦しみの欠片もなくなるように、喜びがやって来るように、イエス様との再会の時がある。「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」私は父のもとにいるから、私の名によって願うことを父は聞いて下さるとイエス様は語られました。しかし弟子たちは散らされていきます。イエス様は捨て置かれているようになりますが、独りではありません。父なる神様が共におられます。十字架は敗北ではなく、勝利でした。艱難、孤独、悩み、しかし私たちは独りではありません。勇気を出しましょう。

 

◇2022年3月20日 ヨハネ15:1-17 「行って実を結び、実が残るように」
「わたしはまことのぶどうの木」との有名な個所です。ここで言う「まことの」とは、「頼ることのできる」という意味もあります。
そういうお方に「つながっていなさい」と主は語られました。ちょうど枝が幹から離れては何も実を結ぶことができないように、私の愛のうちにとどまり、つながって、実を結ばせなさいと主は語られます。
今日の個所にも「わたし」「あなた」「私の父」との言葉がたくさん出てきます。この関係の中に「つながって」いなさい。繰り返し、10回以上にわたって、この言葉が語られます。
また、実を実らせるという事が大切な概念として語られています。戒めを守るという事も記されてあります。「実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞ」くという言葉は、ともすれば、私たちに恐れを引き起こします。
しかし私たちはイエス様の言葉を、それを守らなければ裁くという恐怖の言葉としては聞きませんでした。
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため…わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 主は自ら進んで命をささげ、その愛を知らせて下さいました。そして私たちを友と呼んでくださいます。主と共に行き、今週も信仰の結実が与えられるのです。

 

◇2022年3月13日 ヨハネ14:1-14 「神を信じ、私を信じなさい」
今日の箇所ほど何度となくイエス様が直接的に「私を」と語られるところはありません。
私たちは長らく「信仰」という事を考えてまいりました。それは難しいものではなくて、ストレートにイエス様というお方を個人的に信じ続けるという事です。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
「わたしのおる所にあなたがたもおらせるため」、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」、「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」、「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」わたし、わたし、私を信じ、私に来たれ。私を知り、私に語り掛け、私の名を呼ばわり願え。そうすればそれは父に知られるだろう。叶えられるであろう。私がなしたよりも大きなわざを成すだろう。だから神を信じ、私を信じなさい。それが生きる道だ。真理だ。命だ。私を信じて私と共に進みなさい。簡単なことだ。難しいことではない、と主は語られます。

 

◇2022年3月6日 ヨハネ6:60-71 「人を生かすものは霊」
「このことがあなたがたのつまずきになるのか。…人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」との鮮烈な言葉が記されてあります。これは、それまで主に聞き従ってきた人たちが「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」とつぶやいて語ったことへの主のお言葉です。
つぶやきとつまずき。そしてこんなひどいことがあってなるものかとの私たちの嘆きがあります。主が生きて自分の前におられてもなお、ぼそっとつぶやかずにはいられない、「ひどい」と思われる状況があります。どうやってそんなことを理解できようかと思い、限界に達して「多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。」という結末に陥ることもあります。しかし私たちは心静かに、主のこの御言葉を再び味わいたいのです。
「このことがあなたがたのつまずきになるのか。…人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」
私たちの生まれつきの性質、肉の性質は何の役にも立たないのです。神のお言いつけに背いて、「目には美しく、賢くなるには好ましい、目が開け、神のように善悪を知る者」になる実を食べて、本当に人は目が開けたのでしょうか。ただ生意気になって無知のゆえに真理を遠ざける者となったのではないでしょうか。私たちはいつも主の贖いにより、永遠の命の言により頼んで生きてまいりましょう。

 

◇2022年2月27日 ヨハネ6:41-59 「わたしは命のパンである」 
イエス様による給食の奇跡の後、人々は「食べて満腹した」がゆえにイエス様の後を追い続けました。エデンの園で人は神の言葉に信頼するよりも蛇の言葉に信頼し、神との関係に破綻したとき、「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」とのさばきを受けました。労せずしてパンにありつくことが出来るという事は、人がもともと神の園で得ていた幸せでしたが、それを失ったのは人が神様の御心に沿わない的外れの(これこそが「罪」のもともとの意味)所業を行ったがゆえでした。
「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。」とイエス様はおっしゃいました。人は生きるためにパンを求め続けますが、根源的に人は生きるために神様との良き関係を取り戻さなければならないのです。
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」…これは、イエス様がご自身のからだと血といのち、それら全てを捧げて私たちのために身代わりとなって贖いを成してくださることによってもたらされる救いと永遠の命のことを語っておられるのです。神様のことを忘れて的外れに突き進む私たち人間が正気を取り戻して進むために、イエス様のいのちにあずかる必要があるという事を日々心に留め、主の贖いによって生かされている恵みを思い、神の前に謙遜に進みたく、改めて願います。


◇2022年2月20日 ヨハネ6:26-40 「子を見て信じる者はことごとく永遠の命を得る」
イエス様は先週の個所で、「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」とおっしゃり、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」とも話されました。
民は、モーセが天よりのパンを取り次いで民を養ったように自分たちにもいつも糧を供給してほしいと願いました。しかし父なる神様が私たちの日ごとの必要をご存じで、空の鳥、野の草をも養っておられ、私たち人間に良くして下さることは明白です。しかし民は、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか」と詰め寄ります。
人は神様を信じることが出来ないという徹底した欠陥を持っています。その、常に近視眼的で、信仰に至ることのできない、的外れに生きる民のため、イエス様はこの世に命を与える神のパン、天からのまことのパン、命のパンとなって下さいました。

「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」この破格の恵みを神様は下さいましたが、民はイエス様を見ても信じませんでした。「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行う」という事は、人の力では出来ず、神に選ばれた者のみが出来ることです。これこそが主のよみがえりにあやかって生きる生活です。

 

◇2022年2月13日 ヨハネ6:16-27 「永遠の命に至る朽ちない食物のために働け」
人々を青草の上に座らせ、良き羊飼いは父なる神様への全幅の信頼をもって祈りをささげ、飢える民を食べさせました。人々はイエス様を担ぎ上げうとしましたが、イエス様は退かれました。イエス様は祈るために山に退かれ、弟子たちだけが船に乗りましたが、「強い風が吹いてきて、海は荒れ出し」、漕ぎあぐねていました。「どうしてこのような危機の時に主はここにいて下さらないのだろう」と弟子たちは不安になったでしょう。
どうしてあの時はパンを有り余るほど給食して私たちを喜ばせて下さったのに、今この必要な時に居て下さらないのか。しかしそれは主による信仰の訓練の時でした。
主は湖の深い水を乗り越えて、水の上を歩いて弟子たちの船に近づかれます。弟子たちは幽霊を見ているかのようにびっくりし、慌てふためきます。自然界の猛威の中、自然界の定めを乗り越える主の出現への恐れは、生死の恐れと異なるものでした。マタイ福音書では、。ここで主のお許しによって水の上を歩いたペテロの姿をも記されています。
イエス様を舟にお迎えした時、すぐに彼らは目的地に達しました。群衆はいまだパンの奇跡に酔いしれて主を探しています。しかし主は、パンと湖の奇跡を通して、人は朽ちる物(日ごとの糧)によって生かされるけれども、今や糧が備えられ、危険からも守られ、主と共に新たな目標=心配なく神様のみ旨のためにに進むこと=を教えられました。

 

◇2022年2月6日 ヨハネ6:1-15 「どこからパンを買ってきて食べさせようか」
ベテスダの池でのいやしの後、イエス様はガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。するとその向こう岸にもイエス様の癒しを見聞きした人たちがいて、大勢の群衆がイエス様についてきました。山に登っても、山の向こうから、山を越えて上から人がイエス様に会うために降りてきます。そこに集まった人は男性だけで五千人でしたから、女性をも含めれば一万人にもなったのでしょうか。この人数は一クラス40人の学級であれば。250クラス分。6学年に分けても1学年で42クラス。とんでもないマンモス校です。病や困難の中、多くの人々はイエス様に頼るしか生きる道がないという人たちでした。草の多いフカフカの場所が即席レストランとなりました。
「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」今日の庄原市内でも、一万個のパンを急きょ用意するのは難しいでしょう。一人百円でも一万人では百万円かかります。困るピリポ、そしてアンデレは少年の5つのパンと2匹の魚があるが、こんなに多くの人には何になりましょうかと語ります。
イエス様はその食べ物を手に取り、感謝の祈りをささげると、人々が満腹してもなお12のかごに余る糧が得られました。草原で、素晴らしい羊飼いが群れを養ってくださるこの美しい光景。私たちも、主に出会ってから養われ、守られています。そしてパンはなお12のかごに一杯に余っています。この恵みを伝え、分かち合いたいと願います。

 

◇2022年1月30日 ヨハネ5:31-47 「神が遣わされたものを信じるなら」
「神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。」(38節)という御言葉には、心を刺されます。
「聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」や、「しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」、「 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。」という御言葉の数々を読むにあたり、胸が痛みます。 律法をくまなく調べ、永遠の命を得ようと調べ上げ、御言葉を守っていると確信しながらも、「神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。」という事を知る時、自分本位の信仰では事を成さないのだという事を教えられます。
「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。」 預言者である洗礼者ヨハネの出現は、救いの到来を期待させ、人々を熱狂させましたが、彼を良しとしない悪しき王によって取り去られました。人の世は暗く、一時の希望の明かりは吹き消されました。しかしイエス様の光は、吹き消されてもなお復活し、信じる者に永遠の命を与える神の救いの光です。私たちはただこの遣わされた方のみを見つめて今週も過ごしましょう。


◇2022年1月23日 ヨハネ5:19-30 「死から命に移っている」
今日の聖書の個所は一節一節が階段のように昇り、ピークを迎えて折り返し下っていくように、初めの節と後の節がそれぞれ一対に組み合わされるような、強調の形をとっています。19節と30節が一対、20節と28節、21節と29節、22節と27節、23節と26節が一対となり、24節と25節にピークを迎えます。初めに出て来る節と、後の節の内容は似ていますが、後の節は、より意味が深くなっています。
19節、「自分からは何事もすることが出来ない」とありますが、30節では、「遣わされた方のみ旨を行い、それは正しい」との深みがあります。
20-21節、「わたしは父よりも大きな御業(心にかなう人に命を与える)を行う、あなた方が不思議に思うため。」しかし28-29節には「驚くには及ばない。神の子の声を聞けば善を行った人は命を受けるためによみがえる。」と、ここでも意味を深めて、神の子の声を聞く時、善を行った人が命を受けるのは神の定めで、驚くことではないと語ります。
子にさばきを委ねられたという強調と、子が父と同様の力と権威を与えられているがゆえに敬われるべきことが語られ、ピークの所では、「よくよく言っておく」との後で、わたしの言葉を聞いて、遣わされた方を信じるならば、罪に死んだ人たちは永遠の命を受け、裁かれず、死から命に移り、生き続けるという事が語られています。イエス様が救いの中心であることがここには語られています。

 

◇2022年1月16日 「私の父は今に至るまで働いておられる」 ヨハネ5:1-18
「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。」とありますが、イエス様の宣教は、命がけでした。ご自身の民は分からず屋で、こともあろうに祭司長、律法学者たちが造り主なる主に盾つくのです。「イエスは旅の疲れを覚えて」(4:6)渇きを覚えられますが、出会ったサマリヤの女性は心からメシアを待ち望み、イエス様との出会いを喜び、水がめを置いて人々に告げ知らせました。 
イエス様は逆境の中にご自分の使命を深く知らされ、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」と語られました。遣わされ、支えられているご自身の身の確かさを確認されました。
今日もベテスダ(あわれみの家の意)の池で奇跡が行われます。38年臥せっていた人がいやされます。ずっと38年間、彼を助けて水の中に降ろしてくれる人を探し続けましたが、いませんでした。次から次から後の人に追い越され、寂しい、くやしい思いをしていたこの人。その人に「なおりたいのか」とお聞きになられるイエス様の言葉も不思議です。      
「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」
あたかも健康な人に対するように、事も無げに語られるイエス様の言葉。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」
神様の癒しと慰めは今も行われます。私たちも、遣わされて働いて参りましょう。

 

◇2022年1月9日 ヨハネ4:43-54 「あなたの息子は助かるのだ」
カペナウムからカナまでの道。それは高度差400メートル、40キロメートルの旅、わが息子が助かるためにとの父親の深い思いがあります。「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」とのイエス様のお言葉は、死に瀕したわが子のために険しい道を急ぎ上ってきた父親には酷な言葉だったのではないでしょうか。信じていなければ、死に目にも会えないかもしれない、過酷な旅を思いつかなかった事でしょう。イエス様にはその父の心、必死の心、ご自身にかけるこの父親の心はしっかりと伝わっていたことでしょう。
「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」との言葉は、ヨハネ1:11のこの御言葉を想起させます。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」
「自分の故郷では敬われなかった」とは、神殿のあったエルサレムでのこと、そして造り主を受け入れないこの世界全体の民を指すと思います。
「わが子を助けたい」との気持ちがひしひしと伝わるこの個所ですが、それは私たち人類すべてを救いたい父なる神さまのお気持ちをも思い起こさせます。そのために愛するひとり子を、むごたらしい十字架刑のところにおささげになられた父なる神様の深い深いご愛に心を留めましょう。「あなたのむすこは助かるのだ」、この言葉に、「私はわが息子を助けるのだ」との父なる神様の深いお気持ちが表れています。

 

◇2022年1月2日 ヨハネ4:9-38 「自分では労苦しなかったものを刈り入れる」
かつての北王国の首都サマリアでの出来事です。捕囚の後、サマリアの住民は他の土地に移され、他民族がこの地に入植し、人種的に混血の国となりました。南王国ユダもバビロン捕囚に遭いましたが、そのようなことは起こらなかったため、ユダヤ人はサマリア人を蔑視しました。ユダヤからガリラヤに行く際、ユダヤ人は近道であるにもかかわらずサマリアを通ることはありませんでした。その上、ユダヤ教のラビ(教師)は女性に話しかけることはありませんでした。そこでこのサマリア人の女性は自分に話しかけられて驚きます。さらに、見ず知らずの人が自分の夫とのことについて言い当て、さらに驚きます。彼女には人を避けなければならないほどの遍歴があり、それは灼熱の昼の12時に井戸に水くみに行く事から明らかでした。
イエス様は民族をも、性別をも、人前に出られない罪の有無と関係なく、一人の人を求めて福音を告げ知らされます。
過去のいきさつ、民族の堕落、不道徳や失敗、これらから判断されれば神の前に出るにふさわしくないとされ、正しい礼拝を捧げられるのは限られた人だけだと考えられていたのが、今やキリストの贖いによって、悔いるまことの礼拝者により分け隔てなく捧げることが出来るるようになりました。それこそが主を遣わされた方の御心、一粒の種を蒔いて多くの人を救い、まことの食べ物である「命のパン」が与えられる出来事でした。

 

◇2021年12月26日 ルカ2:26-40 「私の目は今あなたの救いを見た」
「正しく信仰深く、イスラエルの慰められるのを待ち望む」聖霊によって導かれたシメオンと、「宮を離れずに夜も昼も断食と祈りをもって神に仕える」、聖霊によって導かれるアンナが登場します。

この二人の登場人物から、聖霊に満たされた人の特徴を紐解きたいと思います。「正しい」とは、神の標準、意思、御性格に従い、順応し、合致し、適合し、同一化することを意味します。いつもお師匠様を目の前に頂き、憧れ、感化されたいと願う熱き生き方です。それが信心深い敬虔な生き方であり、神様は生きておられ、お言葉は必ずなるという信仰です。そういう人の思いがどこに向かうかと言いましたら、それは信仰共同体全体の慰めと救いです。未だ未完成であり課題を多く持ち、引き上げられるようにとの渇望の祈りがあります。慢心はありません。こういう人には、聖霊によって、「生きているうちに必ず救い主に出会う」という啓示が与えられます。「わが目が救いを見るまでは、わが祈りが聞かれるまでは死ねない」との強い祈りの中、民のための救いを見、彼は安らかに去ります。彼は夜の見張りの交代者が現れるまでは決して仕事を辞めないと目を見開く人のように祈り続けました。そして「み言葉のとおりに」救い主に出会いました。状況は暗く悪くとも、主の救いのお約束を信じて救いの到来を信じて祈り続け、この目で見るまではと、夜も昼も祈り続けたく願います。

 

◇2021年12月19日 ルカ2:1-21 「恐れるな。見よ、大きな喜びを」
紀元前1200年頃。「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」この暗黒の時代、ベツレヘムに飢饉が起こり、モアブの地に避難したナオミの出来事がありました。主は憐れみを忘れず、一切を失ったかに思えたナオミの元にいたルツを通して祝福を現して下さいました。ここからダビデが子孫として生まれました。
マリアの時代も人々は神を忘れ、思い高ぶり、格差と貧しさがありました。しかしそのマリアに、ヨセフに、ザカリヤに、エリサベツに各々語られた主の言葉は「恐れるな」「心配するな」でした。
民の堕落と世の腐敗、絶望と恐れ、しかしその中にも主は救いの御業を着々と起こしてくださいました。
夜も昼も番をして羊を守る牧者たちは尊い仕事でしたが、衛生規定も礼拝をも守れず、卑しいものとされていました。しかし彼らが最初のクリスマス(主の礼拝)の礼拝者となりました。救い主がなぜ飼い葉おけの中に?それは彼らが主を見つけるためのしるしでした。
すべての事には時があり、すべての事には意味があります。主の救いは今日も続いています。「恐れずに」目を見開いて、これからも主の下さる大きな喜びをご一緒に見せていただきましょう。

 

◇2021年12月12日 ルカ1:39-56 「わたしに大きな事をしてくださった」
詩篇8篇でダビデは語りました。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
今日の個所でマリヤもまた、心の底から、自らを見出して下さった神様をたたえています。「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。」と語りました。マリヤはどうして自分のようなものが救い主の母となるように見いだされたのだろうかと思いました。彼女は身分が低く、貧しく、飢えていました。権力ある者でも富んだ者でもない彼女はどうして私が?との思いの中にずっといましたが、エリサベツによるこの一言で心が解き放たれます。
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」…なぜ私が?という思いから、主のお召しならば必ず成就する、大丈夫だ!との思いに変えられたのです。むしろこの貧しく、身分の低い私だから選ばれたのだ。私を選び、私と同じ境遇にある人々をも喜ばせて下さるんだ、そのために私に大きな事をしてくださったんだと彼女は悟ります。今まで世に君臨していた恐れるべき権力ある人々の姿は霧散し、 わたくしに目を留めて下さる方が目の前にズームアップされました。
「そのあわれみは、代々限りなく 主をかしこみ恐れる者に及びます。」力ある主をのみ見上げて待ち望みましょう。


◇2021年12月5日 「恐れるなマリヤ、神にはできる」 ルカ1:26-38
平凡な暮らしをしていた少女の人生は激動を迎えます。
「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。深く困惑し、悩ましい気持ちになったマリヤでした。これはどういった意味の挨拶なのか。しかし彼女はいたずらに天使の出現を恐れたわけではありませんでした。天使が何をもって自分が恵まれていて、喜ぶべき状態にあるのか。今までは考えもしなかった事、主がそんなにも身近に、一少女である自分と「共におられる」ということをどのようにして考えたらよいのかを考えていました。
「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みを頂いているのです。見よ、あなたは身ごもって男の子を生むでしょう。…」
突飛な出来事です。主が共におられ、自らが恵まれていて、喜ぶべき出来事とは、そんなにも突飛で、考えもつかないことなのでしょうか。
ザカリヤは、「どうしてそんなことが私に分かるでしょうか」と、自分には理解できないとはねのけましたが、マリヤは「どのような方法でそれは起こるのですか」と答えました。ザカリヤは起こらないことを前提にして考えましたが、マリヤは起こることを前提として考えました。
「神には何でもできないことはありません。」突拍子もないことを、神様はなさいます。神様は私たちと共におられるからです。私たちは恵みを受けているからです。私たちもお言葉通りなりますようにと祈りましょう。

 

◇2021年11月28日 ルカ1:5-25 「神のみまえに立つガブリエル」
いよいよアドベント(待降節)に入りました。来週、再来週、そしてその次の週がクリスマス礼拝です。今年も主のご降誕をお祝いする心の、信仰の準備を整えましょう。
いつも不思議に思うのは、なぜ神の御前に正しい人、主の戒めと定めとを、皆落ち度なく行っていたザカリヤが、あのようなことになってしまったのかということです。
現れるはずのない天使が突然現れ、話しかけられるということは恐怖であったに違いありません。しかし私たちは、ここに一つの教訓を得ます。それは、「神を畏れて、恐れるな」ということです。主を畏れかしこみ、主がどんなにか奇想天外な事を導かれたとしても、自分の周りの状況に恐れたり、主を疑ったりしてはならないということです。  
ザカリヤはある意味常識的な人でしたが、主にとっては不可能も易々と可能に変えられるという事を固く信じるということが「主を畏れる」ということ、それが「神の御前に正しい」ということです。
天使は言いました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた…時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから…」。彼は神の御前にあり、神様が彼自信に託された言葉はザカリアに絶対に実現すると信じ切っていました。神の喜ばしい知らせ(福音)は時が来れば必ず実現する。それはイエス様によって完全に実現しました。今週も神の御前を進みましょう。


◇2021-11-21 使徒9:1-20 「なぜ私を迫害するのか」
よくテレビで「目からウロコ」の新知識という番組があります。今日の聖書の個所こそ、世界共通の慣用句「目からウロコ」の原典です。
今日の聖書の個所の中でサウロが体験した「目からウロコ」は、生活の中で得するちょっとした発見どころのものではありませんでした。彼の命を死と滅びから救う「目からウロコ」の経験でした。
サウロがしていたことは、生ける神の御子、イエス・キリストを迫害することでした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との天から呼びかける声を聞きました。神の教会を迫害することは「わたし」、すなわちイエス様を迫害すること。イエス様は、それほどに、ご自分の体、ご自身そのものとして教会を、私たちを見ておられます。
サウロは目が見えず、食べることも飲むこともできず、3日間も死んだように過ごしました。彼は生きる気力を全く失ってしまいました。このまま癒しと慰めがなかったなら、彼は絶望のあまり死んでしまっていたでしょう。この死ぬばかりの罪びとを、神様は赦してくださいました。アナニヤを用い、彼の手をサウロの上に置き、癒し、聖霊を与えて彼を生かします。目からうろこが落ちたのはこの時でした。まさに彼の罪が、イエス様の十字架の贖いによって取り除かれたとき、人の目からうろこが取り除かれ、人は聖霊によって見えるようになるのです。私たちも遣わされ、この執り成しの祈りをささげたいのです。

 

◇2021年11月14日 マタイ11:16-19 「知恵の正しさはその働きによって証明される」 (横山晋次先生)
主イエス様から賜った聖霊の導きによって主の弟子たちは、主の名による神の罪からの救いを宣べ伝えたように、 私たちも、福音を伝えたい。

 

◇2021年11月7日 使徒8:26-40 「進み寄って、並んで行きなさい」
先週の個所では、ペテロにより「苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている」と称された元魔術師シモンの出来事がありました。水の洗いでは不十分でしたが、深い悔い改めにより、聖霊により、主イエス様による身代わりの死によって、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放」(ローマ8:2)するということを経験し行くのでした。この解放こそが福音の「良き知らせ」です。どんなにがんじがらめに罪の縄目によって結ばれていても、人の目には不可能と思えるほど苦々しさに染まった心根でも、主の贖いと、聖霊の力によって人は解放されるのです。
今日もこの救いと解放を求める一人の人が登場します。それはエチオピアの女王に仕える宦官でした。申命記23章によれば、彼は会衆から除外される者でしたが、それでも彼は聖書を読み、神様を信じていました。時に孤独に心さいなまれたでありましょう彼の心に響くのは、イザヤ53章の御言葉でした。
「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように…」一体彼は誰なのだろう?彼は何のためにそのような苦しみに会い、命を絶たれることになってしまったのだろう? 聖霊は、聖書を読みながら、信じたいと思いながらも意味が分からずにさまよう、求める人の所にしもべを遣わされます。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」との言葉が胸に響くのです。

 

◇2021年10月31日 使徒8:9-25 「心が神の前に正しい時」
シモンの魔術は、人々を驚かせ、彼に関心を引かせ、さもえらい者に見せかけるだけのものでした。こうして人々は、実に長い間彼に深い関心と注意を持ち続けていました。しかしそこにイエス・キリストの名を伝える僕ピリポが現れました。人々は続々と洗礼を受けました。これを見て、シモンも洗礼を受け、ピリポが行う数々のしるしや目覚ましい奇跡を見ていました。
エルサレムからペテロとヨハネが遣わされ、洗礼を受けた人たちが聖霊を受けるようにと祈り、彼らの手を置くと、人々は聖霊を受けました。それを見てシモンはお金を差し出して私にもその能力を分けて下さいと頼みました。
「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。」
「おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることは出来ない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目が絡みついている。」  
苦々しい心、自己中心の心、悪に染まった古い心、そして絡みつく罪の中にがんじがらめにある生活の姿。人の世界は、どれだけこの罪の支配の中にあってがんじがらめにされているのでしょうか。
「使徒たちは力強くあかしをなし、…福音を宣べ伝え」。

イエス・キリストに強く結ばれた民は、力強く救い主キリストの良き知らせを語り続けました。神様の前に心正しい僕たちは、救いを宣べ伝え聖霊にある人を造り出します。

 

◇2021年10月24日 使徒8:1-8 「それでも良き知らせは広がっていく」
ステパノの殺害の後の出来事です。キリストを忠実に証しし、人々にその心の傲慢さを気付かせようとしたステパノが取り去られたことは痛みでしたが、教会にはさらなる試練の暴風が吹き荒れます。時を置かずにその日に、エルサレムの教会に対して大迫害が起こったのです。そのあまりの猛威に、使徒以外の者はことごとくすべて、住むところや働きの場から追われて、エルサレムからユダヤ、サマリヤの地方へ散らされたのです。そこに「居られないように」されてしまったのです。しかし使徒たちは踏みとどまりました。そして信仰深い人たち(これはユダヤ人クリスチャンを指すものと考えられます)は、ステパノを葬り、彼のために非常に悲しみました。しかしこれは反体制の支持を表す危険な行為でした。
このような悲しみの祈りが神様にささげられる最中、「ところが」と続きます。「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」教会を「荒らし回った」との言葉は、野獣が人間の身体を傷つける時の荒々しい様子を示します。
このように教会はこれでもかと傷つけられました。しかし荒らされ、散らされてもなお、人々は福音の良き知らせの御言葉を宣べ伝えました。それでもなおどこに良い知らせがあるのだろうかと失望落胆しそうな時にも語る情熱を聖霊によって授かっていました。こうしてサマリヤに大変な喜びが起こりました。

 

◇2021年10月17日 1ペテロ4:7-12 「愛は神から出たものなのである」
「神は愛である」との、有名な個所です。この節全体を見ると、「神は愛であり、温かい、お優しいお方、良かったですね」との言葉でないことに気づきます。「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」という流れの中にある言葉であったことに驚きます。神は愛だから、愛のない者には神は分かりません。愛のない人は神様を知りもしませんとの、キッパリとした切り捨てるような言葉です。
「互いに愛し合うべき」とか、「もし私たちが互いに愛し合うなら」とか、命令や、条件めいたことが書き並べられ、「神は愛なり」との言葉が霞んでしまいそうです。
しかし、神様は私たちにそのようなご命令をなさるにふさわしいことを先んじて既にしてくださっているのです。
9節「それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされた」、10節「あがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」、11節「神がこのように愛してくださったのであるから、」こういう風に、これらの神様からの大きな大きな恵みを思えば、先んじた壮大な救いの恵みがあるのなら、私たちの愛の応答など、至極当たり前のことであるように思われるのです。結局私たちの愛は、神様からの巨大な愛に対するちっぽけな応答にすぎません。ここまでして下さる方がありながら、愛さないのなら、神を知らないと言われても仕方がない。それくらいにはっきりと、神様は私たちを愛してくださったのです。

 

◇2021年10月10日 使徒7:39-60 「人の子が神の右に立っておいでになる」
「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」との偽証から始まった裁判でのステパノの説教の結びです。
聖所と律法、モーセの慣例と声高に叫ぶ彼らですが、モーセを退け、神殿の原型であった幕屋を退け、子牛の像を造り、偶像に供え物をささげ、自分たちの手で作ったものを祭って打ち興じ、先祖たち同様、預言者をも律法をも軽んじ、「正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった…ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」と、先祖同様、外側は信心深いようであっても、心は神様から遠く離れていることをステパノははっきりと示しました。
しかし、それは我が民を貶める事ではなく、救いの出発点なのです。そのようにどうしようもない罪深い、心の離れた民に主は救い主を与え、贖いを与えて下さったのです。それがイエス・キリストであったのです。しかし民は良き知らせに耳を傾けず、悪の行いを増し加えるのでした。

 

◇2021年10月3日 使徒7:30-38 「神に立てられたモーセ」
モーセが思い立って自身の民族のためにエジプト人に仕返しをし、同胞から排斥されて40年が経ちました。救いの為モーセが立ち上がったかと思えば、奴隷状態からの救いはまだ40年も続くことになろうとは、歴史の壮大さを感じます。あのとき人々がモーセを受け入れていたらどうなっていたか、モーセが短慮をしていなかったらどうなっていたかと考えますが、それが神の時であったのでしょう。
40年たった時、シナイ山の荒れ野において、御使いが現れ、そして主の声が聞こえました。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう」
ついにその時が来ました。「だれが、君を支配者や裁判人にしたのか」と排斥されたモーセは、神様によってこの時こそ支配者、解放者として遣わされることになりました。
35節「このモーセを」、36-38節「この人が」、「この人が」、「この人が」と、神様が確かにモーセを立てて遣わし、奇跡としるしとによって彼をお用いになられたことが語られます。そして「神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう」とモーセが語ったその人こそがイエス・キリストでした。モーセとイエス様は預言でつながっているのです。

 

◇2021年9月26日 使徒7:17-29 「すべてのわざには時がある」
「すべてのわざには時がある…神のなされることは皆その時にかなって美しい」とは、旧約聖書の伝道の書の3章の一節です。
神様は最善をなさるお方です。私たちの目には奇異で、理解しがたく、不合理であるように見えても、神様のなさることは皆その時にかなって美しいのです。
17節「約束の時期」が近づいていました。神様はご自身の民を救い出すことをお考えになられつつ、またエジプトへの裁きの時をも見ておられました。そして20節「このころ」モーセが生まれました。彼はへブル人でしたが、不思議な神様のお導きでエジプトの王の娘によって育てられました。あらゆる学問を教え込まれ、「言葉にもわざにも、力がありました。」これは、言葉と業に可能性を備えていて、影響があり、指導力があり、力強いという意味で、彼の言葉には威厳があり、その行いも堂々としたものでした。
彼が40歳になった「時」、自分の出自に照らし合わせ、彼は我が民に尽くすために立ち上がりました。虐待されている我が民を救うため、彼はエジプト人に仕返しをしたのです。モーセは、「神様が自分の手を用いて」彼らに神様が救いを与えているというメッセージがイスラエル人たちに伝わると考えましたが、彼らは悟りませんでした。モーセはイスラエル人たち同士のいじめをも見て尚も仲裁に入りますが、「誰が君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか」と冷たい声を浴びせられます。せっかく彼らのために立ち上がったのになぜ?しかしそこにはなおも神の時があったのです。


◇2021年9月19日 使徒7:1-16 「のがれ出て、わたしを礼拝する」
「あのナザレ人イエスはこの聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう」とステパノが語ったという驚くべき偽証の中、四面楚歌、針のむしろの中、人々がステパノに目をやると、彼の顔は天使のように見えました。輝いていました。
「神殿と律法」。イスラエルの民族と神は共に歩まれ、モーセに十戒を与え、ソロモンを通して神殿を与え、神様はご自身の民を出エジプトの奇跡と共に力強く導かれました。しかし、民の心はいつも迷い、乱れ、そこにいつもあったのは神様の憐れみと忍耐でした。イエス様はマタイ9:13でこういわれました。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」 この引用元はホセア書6:6で、こう書いてあります。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
神様は慈しみと愛とを知らされ、人は自らの無力を神様の前に認め、苦難、困難の中で無条件に助けたもう神様の御助けを喜んで受け入れればよいものを、そのために遣わされたイエス様をねたんで拒み、十字架につけてしまいました。神殿よりも律法よりもはるかに優れた神の子を、人はその手にかけてしまったのです。しかし神様は人を罪から死から逃れさせ、神様の前で礼拝することを得させて下さいます。常に悔い改め、神を知ることを更に願いましょう。 

 

◇2021年9月12日 使徒6:8-15 「恵みと力、知恵と御霊によって天使のように」
ステパノが表舞台に登場します。前の個所では、彼は使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、食事の配給の働きのために召された執事であったのですが、彼が堂々と民衆の中で証しをし、最高法院に立つ姿を見ることになるのです。神様の召しは私たちが捉えつくすことが出来ません。恵みと超自然的な力に満たされ、彼はめざましい奇跡としるしを行いました。
そして今日の個所で彼について見ることといえば、「知恵と御霊とで語り」、「彼の顔は、ちょうど天使の顔のよう」であったということです。
後はすべて、この恵みと力に満ちて奇跡としるしを行い、知恵と御霊で語り、顔がさながら天使のように輝いていたこの人に対して議論し、対抗できず、人々をそそのかし、扇動し、彼を襲って捕らえて、偽証人を連れてきて、裁判にかけるという、神様のお働きに盾ついた人たちの言動です。
神様は、ご自身の忠実な僕を、今日も恵みと、超自然的な、理解も解明もできないような力に満たし、目覚ましい奇跡としるしを行わせ、知恵と御霊によって語らせてくださいます。その存在はさながら天使のようであり、その顔は輝いている、そういう者としてお用い下さいます。周囲の騒音がどのようなものであっても、どんなにその力が大きくとも、その働きかけが多くて押しつぶされそうであっても、恐れることはないのです。嘘とまやかしでしか対抗できない、悪に操られた世の勢力をもその流れをも恐れることはありません。なすべきことを行い、語るべきことを語りましょう。

 

◇2021年9月5日 使徒6:1-7 「神の言はますますひろまり」
ここに、「ギリシャ語を使うユダヤ人」と「ヘブル語を使うユダヤ人」が登場します。前者は「離散したユダヤ人」であり、古くはアッシリアやバビロンの捕囚に端を発し、パレスチナから散らされて外地で生まれ育ったユダヤ人で、彼らはギリシャ語を使いました。この人たちと、パレスチナに生まれ育ってヘブル語(アラム語)を話すユダヤ人との間に確執が起こります。それはやもめへの日々の食べ物の配給の事でした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちは多少下に見られていたのかもしれません。
弟子の数が増えるにつれて起こる問題に対して対処を迫られた十二使徒は言いました。「神の言をさしおいて」携われないから、人を立てて「もっぱら祈りと御言のご用にあたることにしよう」。「祈りと御言のご用」とは、礼拝と宣教の事です。
「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」、「信仰と聖霊とに満ちた人」たちは、背景の違う、言葉や文化の違う人たちの間に入り、間を取り持ち、確執を取り除き、主の群れの一致のために邁進しました。弟子の数が増えるにつれて、数々の問題が起こりますが、それに対処する人たちが群れの中から選ばれ、解決し、使徒たちによる神の言葉のご奉仕が守られ、礼拝とみことばの宣教が前進する時、神の言葉はますます広まり、大勢の祭司たちでさえ信仰を受け入れました。教会は、時にその成長を阻害するような困難と課題を抱えますが、会衆の中からふさわしい人が立てられ、乗り越えていきました。信仰と聖霊による執り成し手を今日も教会は必要としています。

 

◇2021年8月29日 使徒5:27-42 「神から出たものなら止められない」
「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。…なんという事だ、エルサレム中にあなた方の教えを氾濫させている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。」と、大祭司は語りました。彼らは目の前の尋常ならざる状況に恐れながら、その氾濫を止めようと、自分たちを責める声から逃げ切ろうとして躍起になっているように見えます。
使徒たちは言います。「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」 ここにはっきりと福音が、「良き知らせ」が述べられています。それは、人の罪過ちをはっきりと示しながらも、神様の重点は「悔い改めさせて罪の赦しを与える」ということです。 それなのに、救いのメッセージが語られているのに、祭司長ら、これを聞いた者たちは自分のプライドの事ばかり考えて、自分が赦されるべき罪びとと認めることが出来ず、「激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思」い、再びイエス様を十字架につけたのと同じことを繰り返そうとするのです。
そんな中、知恵に満ちたガマリエルは語ります。「しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。」そうです。神様によって立てられた彼らを止めることは誰にも出来ないのです。


◇2021年8月22日 使徒5:17-26 「立ち、命の言葉を語りなさい」
先週のアナニアとサッビラの出来事では、恐ろしいような神様の峻厳さが記され、サタンの虎視眈々と人の内に入り満たして惑わす働きを見ました。しかし弟子たちはますます聖霊に満たされ、主はその弟子たちの手にご自身の御手を添えられ、多くのしるしと不思議な業を行われました。
これを見て、大祭司と仲間の者、最高議会はどのように行動したのでしょうか。それは「嫉妬の念」に駆られて「立ち上がり」彼らを迫害することでした。洗礼者ヨハネを投獄し首をはね、主イエスを十字架につけたのと同じように。
「ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った。『さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい』」大祭司たちはどんなに権威と力を尽くして立ち上がって主の弟子を獄に入れようとも、脅して語らせまいとしても、主の弟子たちが立ち上がって命の言葉を語ること、すなわち全ての人の贖いとして十字架に死に、復活されたイエス・キリストを証しすることをとどめることは出来ませんでした。
失望の獄中の夜は、主の働きによって希望の朝に変えられます。そしてからの墓ならぬからの獄がそこにはあります。権力者の嫉妬は、困惑と恐れに変わって行きます。
人の力も、迫りくる恐怖も、状況の悪化も、いかなる獄も私たちには通じません。ただ人を死から復活させることのお出来になる方を畏れ、信じ、立ち上がって今週も、この方の「命の言葉」をお伝えしましょう。

 

◇2021年8月15日 使徒5:1-16 「人を苦しめる悪霊、命を与える御霊」
今日の聖書の個所はホラー小説のような不気味さをたたえています。3節「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか?」とありますが、前半を直訳すれば、「なぜサタン(悪魔)はあなたの心を満たしたのか?」という意味になります。勝手にサタンが心を満たしたわけではありません。押し入って、征服したのではありません。「どうぞどうぞ」と歓迎したから、サタンは心を満たしたのです。そしてその向かわせる先は聖霊を欺くこと、神を欺くことです。
私たちが、全てお見通しの神を欺くことは出来ないのに、悪魔に満たされた心は無知蒙昧の果てに神の聖い霊を欺きます。虚偽を語り、ごまかし、不真実を語ります。言い逃れが出来ると思い込んでいるのです。神を神と思わない不遜の心で満ちているのです。聖霊が私たちの心の内におられ、私たちに真理と命を授けようと執り成しておられるのに、それを一笑に付して、それを欺くことを図って止めない、そういう心、主の御霊を試みる(9節)心、主を軽んじたとしても何の罰が下ろう、試してやれ、という不遜極まりない心が人の心にはあります。
「大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まって来た」(16節)こうありますように、汚れた霊は人に満ちて人を狂わせ、神を侮らせ、人の人生を台無しにして、用無しにし、生きた屍のように力無い者とし、苦しめます。そんな悪霊に目を留めず、聖霊を賜る主イエス様を受け入れて進み続けましょう。

 

◇2021年8月8日 使徒4:32-37 「慰めの子らにあらわされる神の御業」
「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして…」と書いてあります。これは意志と感覚、そして精神(スピリット)を一つにしていたとも言えるでしょうか。オリンピックの試合が続けられていますが、一人一人の個性が異なっても、思い、考え、心を一つにして、心の奥底の価値観と言いますか、魂を一つに通わせて、一つ家族のように阿吽の呼吸で進む大切さを感じます。
信仰を共にする群れが、共に暮らす家族のようになり、家族同士が必要のために互いの持ち物を分かち合うように、ちょうど出エジプトの時のマナを分かち合うように、日々の必要のために分かち合っていた出来事に、その結びつきの強さを知り、心打たれます。
そんな信仰共同体である教会に、神様は祝福を与えられ、使徒たちは「主イエスの復活について、非常に力強く証し」することとなり、「大きなめぐみが、彼ら一同に注がれ」ました。

 

「使徒たちの足もとに置く」ということは、教会にささげるということです。そして教会の交わりの中で、必要な人に富が分配されていきました。神様の御用のために仕え、祈り、奉仕することと、信じた者の群れが助け合うということが、同時進行的に進められていきました。こうして心通い合う群れを通して神様はその御業を現されました。バルナバは「慰めの子」と呼ばれ、後にパウロを群れの中に積極的に招き入れ、パウロと共に世界宣教をしたり、働きを放棄した者を再びかかえたりしましたが、その根底には彼の捧げ、助け合う心がありました。

 

◇2021年8月1日 使徒4:23-31 「思い切って大胆に語らせてください」
今日の聖書箇所には、神様に確かに聞かれる祈りがあります。
それは1ヨハネ5章14節にこうある通りです。
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」
ペテロとヨハネは釈放されて後仲間の所に戻り、一切のことを語りました。それは詩篇2篇の通りの出来事でした。
「異邦人ら、もろもろの民、地上の王たち、支配者たち、ヘロデ、ピラト、異邦人、イスラエルの民」は党を組んで一緒になって、一致団結してイエス様を迫害して十字架につけたように、主の弟子たちにも脅迫を繰り返します。しかしそれは主によって知られないことではありませんでした。それはあらかじめ定められていたことでした。
主は相集い逼迫を受けるその状況の中で、主の弟子たちに祈ることを望んでおられます。状況に押しつぶされないで大胆に祈ることが出来るように導かれているのです。

 

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」 この祈りは聞かれました。その通りに聖霊の力に満たされ弟子たちは大胆に神の言葉を語り出しました。私たちにも神様の言葉を語らせまいとする力が働きますが、神様は私たちの祈りに答えて御力を現されるのです。

 

◇2021年7月25日 使徒4:15-22 「神に聞き従い、御名を語る」
エルサレムにて大祭司、役人、長老、律法学者たちが招集され、日本で言うところの国会兼、行政府兼、最高裁判所のような最高議会が開かれました。ペテロとヨハネは居並ぶ人たちに比べれば田舎から来た「無学な、ただの人たち」でしたが、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」とのその大胆な話しぶりを見て人々はびっくりしました。イエス様が共におられ、聖霊によって励まして下さり、彼らは立派に行動しました。
さて立派な先生方はペテロとヨハネに退場を命じてから協議しましたが、彼らは弱腰でした。いつも民衆を恐れ、自分たちの権威を失わないようにとの姑息な手段を協議するのみでした。脅してこの御名で話さないようにと命じましたが、イエス様の権威によって進むペテロらにその脅しは聞きませんでした。逆に権威者たちの弱点は見抜かれていました。
「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」
権威者たちは腹いせに、ペテロらをさらに脅すしか方法はありませんでしたが、その働き虚しく、「著しいしるし」、生まれつき足が不自由で40年以上にわたり苦しんだ人にあらわされた「そのしるし」は、人を恐れずに神を畏れる弟子たちによってますます現されるところとなったのです。「イエスの名」が今日もこの「しるし」を引き起こすのです。

 

◇2021年7月18日 使徒4:1-14 「イエスと共にいた者」
「美しの門」で起こった出来事は、今もなおその波紋を広げていました。人の知恵では考えられないことが神様の力によっては起こる、それがイエス・キリストの御名による癒しでした。それは人々に捨てられ、十字架につけて殺されてもなお、神様は死人の中からイエス・キリストをよみがえらせ、隅の頭石とされました。建物の基礎となる大切な石とされた、父なる神様による出来事に基づくものです。
この、人からは捨てられても、神様の力によってよみがえり、立ち上がったイエス様の御名は、私たちがじっと見つめ、いつも頼みにするべき御名であり、「この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」という御名なのです。

 

祭司たち、律法学者たちはペテロらがこのイエスにある教えを説き、その復活を宣伝することに大変悩まされ、心を苛立てていました。このことを語られることが不都合であり、蓋をしようと取り囲み、真ん中にペテロらを立たせて尋問しました。「お前はいったん何の権限によってそんなことをしているのか」と。しかしペテロは聖霊に満たされて言いました。どうして病人に良いことをして責められるのか、あなた方はイエス様を殺したが、神はこの方をよみがえらせた。そしてその神の力によって、その御名によって私はこのことをしたと。聞く人たちは無学なただの人がここまで大胆に語るのを見て不思議がりました。しかし彼らがイエス様と共にいた者であるということだけは確かな事だったのでした。

 

◇2021年7月11日 使徒3:17-26 「あなたがたは預言者の子」
「まず最初に、真っ先に、一番重要な事として、神様は、あなた方のために、しもべを立て、悪を取り除き、よこしまと邪悪から立ち帰らせる過程においてあなたを祝福するためにキリストイエスを送って下さった」とのペテロの言葉が胸を打ちます。
この恵みを神様は古くから「予告しておられ」、「あらかじめ定めて」、「昔から預言したおられ」、「この時のことを予告」しておられました。人の罪のための「キリストの受難」は初めから多く預言されていました。この赦しと恵みが初めからあったのだから、弱さのゆえに、あなた方の指導者たちと同様、「知らずに」、無知のゆえにしでかしてしまった過ちについて、すなわちいのちの君を十字架につけてしまったことについて、悔い改めて本心に立ち返りなさい、心を入れ替えて、心の向きを変えて、生き方を変えて進みなさい、滅びに向かう無知の心を捨てて人の進むべき本心に立ち返り、罪をぬぐい取って頂き、主の御前から来る慰め、元気の回復を得て、心の奥底からの力付けを得て進みなさい。神様はあなた方のために、祝福にあずからせるためにキリストイエスを遣わして下さったからと、聖書は優しく語り掛けます。
「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」、この祝福は私たちにとどまるものではなくて、地上のすべての人に受け継がれるべきものです。私たちが留めおいていてはならないものです。
「あなたがたは預言者の子」。モーセが苦役から民を解放したように、私たちも祝福の子として世にあって輝く者なのです。

◇2021年7月4日 使徒3:11-16 「いのちの君、イエスの御名」
時に、「困ったことがあったら、私の名前を出しなさい、そうすれば助けが得られるだろう」という有力者の一言に助けられることがあるかも知れません。大企業の受付で、その人の名刺を差し出せば、社長室へ通していただけることもあります。
パウロは、「イエス様のお名前」に信頼しきっていました。彼は、イエス様がどのようなお方でいらっしゃるかを熟知していました。彼は、金銀にはより頼まず、金銀の力を超える働きが出来ると信じ、このお名前を出して、生まれながらに足の利かない男性を癒しました。この癒しの力の源は彼には無く、このお名前にあったということは明白でした。
アブラハム、イサク、ヤコブの神がイエス様に特別な栄誉を与えられ、人としてあるイエス様に特別な示しを与えられたにもかかわらず、イスラエルの人たちはこのイエス様を拒み、いのちの君を、いのちの創始者を、いのちの原作者を殺してしまいました。到底許されない大罪を人間は犯しました。自らがいのちの道を摘み取ったのです。
しかし神様はこのイエス様を死人の中からよみがえらせました。弟子たちはその証人でした。
力あるイエス様の御名を信じるということ。どんなに苦難に満ちた、絶望的な状況でもこの名を信じるということが私たちに問われています。この御名は人を力づけ、癒し、立ち上がらせます。イエス様のゆえの信仰は、本当に力強い助けを生み出します。ですからこの名を拒む者ではなくて信じる者でありたいと願います。

 

◇2021年6月27日 1コリント12:12-27 「一つのからだとなるように」
今日は少し使徒行伝から離れ、「教会」について考えたいと思います。とはいえ、内容は使徒行伝と連続しています。「一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」とあるからです。
教会の誕生日としばしばいわれます、あのペンテコステの出来事、恐れおののいていた弟子たちが習ったこともない言葉で神様の偉大な御業をほめたたえ、キリストの証人として世界に飛び出したあの出来事は、教会にとって大きなことでした。彼らに聖霊を与えることを約束しておられたイエス様の言葉は正しく、イエス様が神様から遣わされた方だということは明らかになったからです。
共に御霊を飲んだ者は一つ体の各部分だと今日の聖書は語ります。共に「キリストにあずかる」ということは、同じかしらを頂くということであり、それは同じ体になるということを指すと聖書は語ります。
体の成り立ちを考える時、それは、「いらない部分はない」ということです。体に表に良く見える顔の組織など、麗しい部分もあれば、誰にも見られることのない足の裏のような部分もあります。しかしすべてが大切な部分であり、優劣を語ることに意味がなく、調和し、いたわり合い、分裂がなく、ともに悩み、ともに喜ぶ、一つ体となるように、共生と調和の霊が与えられていると聖書は語ります。
私たちはこの御言葉を頂かなければ、しばしば一つとなりがたい弱い存在であることを悟り、主に求めたいと願います。

 

◇2021年6月20日 使徒3:1-10 「わたしたちを見なさい」
私たちの人生にとって最も大切な気づきとは何でしょうか。家族や友を大切にし、健康に留意し、骨身を惜しまずに働いて、チャンスを得ること…。いろいろと人生には大切な気づきがあると思います。
ペテロは美しの門で施しを求める男性に、「わたしたちを見なさい」と言いました。これは「私たちに気づき、私たちを発見し、見つけ出しなさい」という意味です。
期待を持たせて何を言うかと思えば、「金銀は私には無い」との言葉でした。何を大仰な、はったりを言うような人たちだとがっかりしたかもしれません。しかしその後が奮っていました。「しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
「歩く」とは、ギリシャ語で動き回るとか、生きるとか、自分の身を処するという意味があります。
この男性はいつも、人通りの多い神殿の門まで抱えられ、おいてもらって物乞いをして、生計を立てていました。施しを受けるのが彼の生きる道でした。しかしペテロはそれに勝る道を彼に与えました。それが「ナザレ人イエス・キリストの名」でした。
彼は足とくるぶしがたちどころに強くなり躍り上がって立って「歩き出し」ました。彼には、新しく自分の身を処するすべが与えられたのです。それがイエス・キリストによる生き方でした。様子を見ていた人々もそれと気づき、そこに人生を分ける意味を知って大変驚きました。

 

◇2021年6月13日 使徒2:43-47 「よろこびと、まごころをもって共に」
ペテロが熱弁をふるい、イエス様こそは、王ダビデが畏れ主と呼んだ方、父なる神が「黄泉に捨ておかず、その肉体が朽ち果てることがない」と言われた方、その通り3日目によみがえり、父のみもとに昇られ、約束の聖霊を与えて下さった方、その復活も、聖霊降臨の様子をも確かに見たあなた方は、神が主として立てたこの方を十字架にかけたあなた方は、なぜ今もなお、否み続けるのかと語りました。
「この曲がった時代から救われよ」この言葉に多くの人たちが導かれました。一同はひたすら教えを守り、信徒の交わりをなし、聖餐を共にし、祈りました。ここに教会の原型があります。
彼らの内にいつも神様は共におられ、彼らには神様の臨在による聖なる恐れがありました。神様は共におられ、多くの奇跡としるしを与えて下さいました。彼らは一つ心で共に住み、家族のように持ち物を分け合いました。
そして彼らは日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし礼拝し、家では聖餐をなし、賛美をし、いつも神様と共に生きました。そんな彼らは、この上ない非常な喜びと、子供のような素直さ、純真さ、謙遜な心でいました。こんな彼らは好意を持たれ、その共同体を求めて日々仲間が増えました。現代の時代はこの時よりもはるかに複雑であるように思われがちですが、決してそうではありません。この純真さ、一途さが、今日もなお求められているのです。

 

◇2021年6月6日 使徒2:24-42 「この曲がった時代から救われよ」
聖霊降臨の時、弟子たちは霊が語られるままに、それまで習ったこともない外国の言葉で、それぞれが神の大きな働きを語りました。
それを聞く人たちは「いったい、どういうわけなのだろう」と驚き怪しみました。
人には理解できないことが起こり、弟子たちは賛美の舌を頂いて、世界広しの、多くの人々に語り掛けうる言葉を得たのでした
。まさにそれは「地のはてまでわたしの証人となるであろう」と語られたイエス様のお言葉の成就でした。
そして今日の個所で、ペテロは大胆に霊によってイエス様のことを証しし、語ります。
ユダヤ人たちが慕う王ダビデがどれだけ「わが主」を目の前に見、頼りとしたこと、「魂を黄泉に捨ておくことをせず、聖者は朽ち果てることがない」とこの主について預言し、
その主は神によって敵を制圧し、その敵の王の首を足台となす方であると語ったことを述べ、その主、神がメシア・救い主となさった他ならぬその主イエス様をあなた方が十字架につけたのですと、ペテロは迫りました。
聞いた人々は強く心を刺されました。どうしたら良いのでしょうかと口々に語りました。
イエス様という方は、全ての人にとって無縁な方ではありません。
この方を無きものとしようとする「曲がった時代」、しかし私たちはそれを曲がったままにすることなく、そこから逃れる道、救いの道をお伝えすることが出来るのです。

 

 ◇2021年5月31日 使徒2:14-23 「私の語ることを聞きなさい」
先週は聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を味わいました。すなわち、習いもせず語ったこともない言葉で、 聖霊が語らせるがままに、神様の偉大な御業をたたえたのです。これはまさに私たちのキリスト者としての 歴史そのものです。神様をかつては知らなかった私たちが、わが力によらず、ただ聖霊により、今習ったことも ないような麗しい祈りの言葉と証しの言葉で主のくすしき御業をほめたたえるようになったのですから。
そしてペテロは声を張り上げて語ります。「私の言うことに耳を傾けていただきたい」と。終わりの日、 主の霊がすべての人に注がれ、預言し、神を宣言し、主の幻を、志を、ヴィジョン(未来像)を見せて頂く、 そういう霊を授かったのだと。
天には救いによる守りがあり、奇跡と麗しさがありますが、終わりの時、地にはやがて裁きが来ます。
日は闇に、月は血に変わります。しかし主の名を呼び求める者は皆救われます。 「今私の語ることを 聞きなさい」パウロは霊によって確信をもって語ります。力と、不思議と、奇跡的しるしによって神様が 実証された方、神様の深い予知と計画とによって導かれたお方をあなた方が、あなた方が十字架につけて 殺したのだということをパウロは語りました。人に主を認めようとしない心があります。しかし、 キリストを信じ、救われて霊を受け、未来に向けて進む道があるとパウロは力説しました。

 

◇2021年5月23日 使徒2:1-13 「聖霊が語らせるままに」
五旬節の日。それは50日目の祭日との意味です。過越の祭りから50日目。この日は、大麦の収穫を終え、 小麦の収穫の始まる時、収穫のお祭りの時です。
イエス様は40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されましたが、過越祭の時に十字架にかかられ、 3日目に復活され、それから40日間とは、この50日目のペンテコステ、ということを考えますと、ほとんど ずっと彼らと共におられたと分かります。そしてついに出来事は起こりました。
弟子たちは主のお言葉の通りにエルサレムから離れずに共に聖霊を待っていました。そして五旬節の日、 突然に激しい風が吹いてきたような音が天からして、炎のような、分かれた舌が弟子たち一人一人の上にとどまり、 一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で語り出しました。この風の音は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語られたことを想起させます。 様々に分かれた言語を語らせるための舌を授けられ、彼らは聖霊が語らせるままに神を賛美しました。聞く人々は あっけにとられるばかりでした。どうしてそんなことが可能なのか。人には理解できないことも、 神様にはできるのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」 イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」
イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。


◇2021年5月9日 ヨハネ21:1-19 「わたしの小羊を養いなさい」
イエス様はまたも弟子たちにお姿を現されました。これですでに三度目。主はわが小羊を愛し抜き、 いつも時を、場所を共にしてくださいます。  「親の心子知らず」とは言いますが、何度も何度も来てくださり、 現れて下さるのに、弟子たちはこの度もそうとは気付きません。
ルカ5章の大漁の奇跡の時、夜通し頑張っても何も取れなかった時と同じ。すでに夜は明けていましたが、 弟子たちは事がうまく行かず、寂しい、寂莫とした気持ちでいます。
その白々としたガリラヤ湖の朝、朝もやの中、イエス様はまだ暗いうちから弟子たちを見守り、 湖畔に立っておられました。
「子たちよ、何か食べる物があるか。」優しい語り掛けがあります。これは直訳すれば「幼な子たちよ、 魚が何にもないんだろう?」です。主は弟子たちの空虚さ、心細さ、欠乏をすべてご存じです。主の元には 暖かな炭火があり、整った食べ物があります。主は私たちの養育者であり、牧者です。「わたしの羊」を 守り抜いて養ってくださいます。
主のみもとで子供のように喜んで魚を並べて数える弟子たち。このお方のもとに人の幸せがあります。    


◇2021年5月2日 ヨハネ20:24-31 「信じて命を得よ」
今日の主の言葉を味わいます時、主イエス様がどれだけ私たちが信じ続けることが出来るように思い図って いて下さるのかということを感じます。
信仰者と共に励まし合いながら集う時、主はその真ん中におられます。安かれと語り続けられます。
しかし私たちには様々の障害が訪れ、相互の交わりと礼拝から遠ざかる時があります。信じるための決定的な チャンスがあったのに、小さな障害のためにそれがふいになってしまうという、私たちは熾烈な、信じると いうことの戦いの中にあるとも言うことが出来るかもしれません。時に戦いに敗れ、信じることが出来ず、 心は千々に乱れます。しかし、主は信じられないその辛い思いを人知れず聞いておられます。
そして新たな信じるチャンスを与えて下さいます。
見なくては信じられない私たちに、初めから見ないで信じなさいとは言われずに、お姿を再びお見せになってから、 見ないで信じる者は幸いとおっしゃいます。私たちは神様の恵みにより、主にお目にかからせて頂きながら、 赦されながら成長させて頂き、ついには見ずとも信じ、信仰の命の中を益々と進み続けるようにと導かれるのです。

 

◇2021年4月25日 ヨハネ20:19-23 「あなたがたをつかわす」 弟子たちの恐れ、それはユダヤ人たちが師を十字架に上げて後、今度は自分たちを迫害するのではないかとの 恐れであったと思います。逮捕され、投獄され、死に引き渡されるのではないか…。先行きの不安です。
自分の望むようにいかず、苦しい方へ、破滅の方へ向かうのではないかとの懸念から、彼らは鍵をしっかりと かけて打ち震えていました。その弟子たちの真ん中に主は立たれ、繰り返し「安かれ」と語られました。
この「安かれ」との主の言葉は何を意味しているのでしょうか。挨拶でしょうか。気休めでしょうか。
主が語られたのは「大丈夫だよ、私がいつもそばにいて守ってあげるからね」とか、「私が敵を滅ぼしてあげよう」 ではなくて、「私はあなた方を遣わす」でした。かくまって、守ってあげるのではなくて、 敵地に遣わすということでした。それが「安かれ」との意味であったということに、驚きます。聖霊を受け、 敵である人々の罪を断罪するのではなくて赦すこと、これが彼らへの使命でした。
神の聖霊を受け、遣わされるということ、それはある意味赦しの権限を受けて権威ある立場としての就役のために 任命されるということでした。主はおびえる子供たちに新たな使命を与え、彼らを強められたのでした。 

 

◇2021年4月18日 ルカ24:36-53 「なぜおじ惑っているのか」
復活節の御言葉は、いつもと変わらずアップダウン、いや、ダウンアップです。
エマオの途上で起こったことを話し合っている時、その所にイエス様が現れました。恐れ驚いてと、 二つの驚きの、それも戦慄したという言葉が重ねられています。彼らは幽霊を見ていると思ったのです。
私たちが状況を見てそこから判断すること、そこにはしばしば間違いが伴います。イエス様は 「なぜおじ惑っているのか」、「どうして心に疑いを起こすのか」と、「なぜ」「どうして」と2回 言われました。惑い、疑い、恐れる時ではないのに、なぜあなたの心の中にそういう思いが、疑いが 立ち上るのか、どうして?と主は問われます。
イエス様はご自分の体をお見せになり、魚を面前で召し上がり、弟子たちを安心させました。
そしていつもの通り、キリストが苦しみを受けて死人のなかからよみがえり、悔い改めが起こり、 救いが世界に広がるという出来事を語り、あなたが証人となるのだ、そのために聖霊が下るのだと語られました。
彼らは大喜びしました。私たちの信仰生涯もいつもかくの如しです。恐れが容易に心を去来し、 御言葉に励まされ、私たちは喜びに満たされ、力を頂いてまた証しに励むのです。

◇2021年4月11日 ルカ24:13-35 「お互いの心が内にもえていたではないか」
主は私たちが途方に暮れ、悲しみ惑う時のために先んじて御言葉を幾度となく語り掛けておられます。
復活の予告しかり、ペテロの否認しかりです。しかし人は、容易に御言葉を忘れてしまいます。
そしていざ困難の状況の中にある時、哀れなまでに無力です。主の復活を「愚かな話(空虚なこと) のように思われた」とありましたが、困難の中、私たちは容易に希望を失ってしまいます。
エマオの途上、ここにも二人の弟子がトボトボと悲しそうに歩いていました。そこにイエス様が すっと伴われますが、彼らにはそれと気付きません。
「彼らの目がさえぎられていた」のです。何ものかに捕らえられるかのように、押しとどめられ、
抑え込まれてしまったかのように、彼らの目は本来の働きをすることが出来なくなっていました。
そして彼らは悲しそうに道端に立ち止まっていたのです。
「ああ、愚かで心の鈍いため…信じられない者たちよ」そしてイエス様がご自身のことを御言葉から 話されるとき、彼らの心が内に燃えました。彼らは新たな力を得、夕暮れの道を喜び勇んで
信仰の友との交わりに向かうのでした。

 

◇2021年4月4日 ルカ24:1-12 「お話になったことを思い出しなさい」
復活の主の御名をあがめます。
私たちは「ハレルヤ」とこの朝高らかに神様をほめたたえますが、2000年前のイースターの朝は 全く状況が異なっていたようです。
女性たちは、かいがいしくイエス様のご遺体に良い香りを添えようと出かけました。
「ところが」イエス様のお体は見当たりません。彼女たちは「途方にくれて」いました。
私たちの人生の中にも、途方に暮れる時があるでしょうか。茫然自失、定かでない、困惑の出来事、 これらは歓迎されるものではありません。
二人の天使が現れました。神様の元から遣わされた二人は、神様のおそばにある輝かしいまばゆい栄光に 輝いていました。そんな光を見たことのない女性たちは心底恐怖に襲われました。   
イースターの朝は、大変な朝でした。しかし天使の言葉はこうでした。イエス様が「あなた方にお話に なったことを思い出しなさい」、主の御言葉を思い出しなさいということだったのです。
私たちの困惑の時、途方に暮れ、恐怖におののく時、それは主の御言葉を思い出すべき時なのです。
女性たちは主のお言葉を思い起こし、すべては主が語られた通りだったと知り、ようやく喜んだのでした。

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