タイトル

1884年
(明治17年)

A・B・シンプソン、最初の宣教師を派遣するも失敗した
(『すべてイエスのために』71頁)
庄原英学校創設(村民の出資で庄原倶楽部設立、洋式の校舎であった
(寺田芳徳師著書、207頁)

1885年
(明治18年)

4月~8月ころ、現庄原市民会館の場所にて庄原英学校開校
(宣教師J・W・ランバス師等が教師)
(寺田芳徳師著書、207頁)
☆J・W・ランバス(James William Lambuth)師(1830~1892)
1830年 米国アラバマ州生まれ。中国で医療宣教師として活躍(32年間)
1886年(明治19年)7月25日神戸来任、広島等各地へ。
1887年(明治20年)メソジスト系J・W・ランバス師、庄原でキリスト伝道をした最初の宣教師。
庄原伝道、同師のご夫人が大阪でランバス女学校(聖和 女子大学)を創立。
1889年(明治22年)アメリカ南メソジスト監督教会が設立。
J・W・ランバスの子、W・R・ランバスを関西学院(関西学院大学)の院長に就任させている。
☆堀江儀作師<初代広島教会牧師、庄原出身>が、J・W・ランバスの導きを得た可能性がある<松山静師著書>

1887年
(明治20年)

A・B・シンプソン師、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスを設立された。
1887~1890年、19人の宣教師派遣、
1888~1890年の間に、7人の宣教師が、中国へ向けて船出したが、
1886年、ウイリアム・キャシディ師は日本への医療宣教師としての召命を受け、準備をしていたが、最後の仕上げにニューヨークに赴いた時、
シンプソン師に出合いました。
そこで、シンプソン師が創立した、「宣教師養成学校」に入り、中国伝道の幻(ビジョン)を与えられ、明治21年(1888)、妻子 を残して、中国へ向かいました。
・・・しかし、船上で天然痘に罹り、寄港先の神戸で天に召され、外国人
墓地に葬られた。
(田村幸三『日本アライアンス教団50周年記念誌』37頁)

1889年
(明治22年)

アライアンス宣教師、ミス・H・キニー師は、・横浜に上陸しました
(1889-10.23)
(『すべてはイエスのために』71頁)。
偕成女学校(共立女子神学校)設立に参加、神癒の福音出版に励む
(田村幸三『日本アライアンス教団50周年記念誌』37頁)

1892年
(明治25年)
庄原英学校廃校(寺田芳徳師著、英学発達史141頁)

1893年
(明治26年)

A・B・シンプソン師来日<6~7月間の約3週間> 京都会議
T・W・ギュリック師、ミッション議長就任(広島教会史5頁)
☆T・W・ギュリック師、三次町に赴き、伝道を開始した。

1895年
(明治28年)

ミッション本部設置(三次町) 石見、備後、安芸伝道へと前進
(T・W・ギュリック師夫妻からH・リンドストローム師夫妻へ引継、<H・リンドストローム夫妻、アライアンスに加入>ミス・バーンズ師、ともに働く)(広島教会史6~7頁)
☆9のつく日には庄原にて市がたっていた。その日には庄原まで 伝道に出かけた 
☆梶原勝蔵氏は路傍伝道に触発され、三次までミス・バーンズ宣教師を訪問キリストを信じる

1896年
(明治29年)

☆6月9日、西城川にてリンドストローム師により梶原勝蔵氏、洗礼をうく(庄原教会の初穂)

1899年
(明治32年)

ミッション本部移動(H・リンドストローム師夫妻、広島へ
☆堀江儀作師;東京で勉学中、聖公会でクリスチャンになり、広島師範出、卒業後、川北小学校校長となり、青年をマルクス主義から守る為に聖書研究会を開き伝道した。
数名のクリスチャンができる。上下小学校校長を信仰のゆえ退職し、広島に出てリンドストローム宣教師の日本語教師になった。
1900年
(明治33年)

ミス・バーンズ師、病の為庄原を去り、療養生活に入る。
無牧の状態

1908年

無牧状態にあったが、森信英一氏アライアンスの看板を広島から持ち(明治41年)帰り、聖書研究会発足。
是井寿一氏(後に牧師)らも集まっていた。
☆森信英一氏は明治43年受洗。広島から時々は宣教師が来ていた

1909年
(明治42年)
11月30日 ミス・フランシス宣教師、来日(横浜)

1911年
(明治44年)

ミス・フランシス宣教師、広島より庄原伝道を助ける
<堀江儀作師の要請による>

1912年
(明治45年)

ミス・フランシス宣教師、広島から庄原に移り伝道する
※ミス・ワイリー宣教師、宣教をともにする。

1912年
(大正元年)

ミス・フランシス宣教師の弟ミスター・フランシス師協力伝道来庄。
庄原拠点にし、吉舎、東城、油木等、県北を足で伝道して歩いた

1913年
(大正2年)

ミス・フランシス師、福山伝道、ミス・ワイリー宣教師、吉舎、尾道、松永等に宣教した。

1917年
(大正6年)

ミスター・フランシス師、庄原を去る。広島へ(拠点移行)

1918年
(大正7年)

青年たちの加入、神戸より平という信徒伝道者が来庄。
毎日毎日、集会が続けられるほど人々は集まった
ミス・ワイリー宣教師、健康がすぐれず、尾道を去り、庄原の川手に帰り、散らばった人々を救い主のもとへ連れ戻り、子供たちのために集会を開いた
(“The  Alliance Weekly”1919.7.5号)

1923年
(大正12年)

松山 静師、上下より庄原に転任
無牧状態から抜け出るも、松山 静師、巡回伝道に任命。
庄原を去る

1924年
(大正13年)

滝口 忠一師、庄原に就任

1926年
(大正15年)

滝口 忠一師、庄原教会を去る

1932年
(昭和7年)

日本キリスト教団庄原教会がアライアンスより分裂し誕生

1935年
(昭和10年)

山本 団市師、庄原教会に就任

1938年
(昭和13年)

山本 団市師、庄原教会を去る

1940年
(昭和15年)

松山 静師、庄原教会に就任

1941年
(昭和16年 )

日本キリスト教団に加入<第7部に組み込まれた>
第2次世界大戦勃発(1945<昭和20>年8月、終戦)

1949年
(昭和24年)

広島教会単独で、宗教法人登録(主管;ミス・フランシス宣教師)

1951年
(昭和26年)

日本アライアンス教団再発足<戦前;日本協同基督教団>
加盟教会(広島、福山、庄原、東城)
協力教会(松山、柳原、大洲、新居浜、宇和島、出海、今治、北条、呉、大東加茂、尾道、府中、松江)

1953年
(昭和28年)

新田 節子師、庄原教会<副牧師>に就任

1955年
(昭和30年)

新田 節子師、転任

1956年
(昭和31年)

大寺ノブ師(現姓:片山)就任(4月)

1957年
(昭和32年 )

庄原教会教会堂献堂式

1959年
(昭和34年)

大寺ノブ師(現姓:片山)転任(3月)

1961年
(昭和36年)

S・ディック宣教師、庄原にて協力伝道
<多くの方々が、主の救いに導かれた>

1963年
(昭和38年)

川北伝道所献堂式
S・ディック宣教師、庄原を去る

1974年
(昭和49年)

1974年~75年 横山神学生インターン(川北伝道所に滞在)
※主に、松山牧人師を助け、国兼湖キャンプ場整備にあたる
(夏は、大分教会での奉仕のため、通算約9か月の滞在)

1976年
(昭和51年)

松山 牧人師、庄原教会牧師として就任
松山 静師は隠退

1985年
(昭和60年)

松山 牧人師 休職のため、福山教会の藤家栄一牧師が兼牧

1987年
(昭和62年)

泉 昭憲宣教師ブラジルより帰国。その年に庄原教会に就任、
<庄原教会宣教100年記念証詞集を発刊>

1997年
(平成9年)

泉 昭憲師、新居浜教会へ転任、
横山 晋次師、三原教会より転任

2004年
(平成16年)

4月末、改修庄原教会堂完成
5月5日、庄原教会教会堂献堂式

2015年
(平成27年)

庄原教会創立120年記念誌発刊<歴史、教勢、証詞等>
10月25日(日)、山中正雄師(精神科医、千葉教会牧師)を
お招きし、記念伝道礼拝、講演会を開催

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