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説教要旨

 ◇2024年12月1日 ローマ13:8-10 「愛は律法を完成する」(横山晋次先生) 愛の本質は、愛せば愛すほど、愛さねばならないのが愛です。なお愛さねばならないという負債が残るのが愛で、愛の負債は返せないのです。「人を愛する者は律法を全うするのである」(ローマ13;8b)。信仰とは私たちの神への応答を言い表したものです。ルターに始まります「信仰のみ」という主張は、私たちが神に愛されるために何の条件もつけられない、これが福音です。私たちの心を解放するのです。自由にされるのです。これがルターのいう「キリスト者の自由」であります。 「主のあなたに求められることは、ただ公儀をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と歩むことではないか」(ミカ6:8)、これをハバククは1つにまとめ、「義人は仰によって生きる」(ハバクク2:4)と(高橋三郎「新稿ローマ書講義下」山本書店180頁)。「人間が人間になるのは、自己を他者にゆだねることである」(ヤスパース)。「最早我生くるにあらず。キリスト、我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。神様に委ねまかせて、主にあって生きていく時にいろんなものが実現していくのです。それらのものは神の国、神の義に添えて与えられるのです(奥村修武師) ローマ13:8~10で、愛の負債について、学びました。主を愛し、隣人・特に挙で働く敵を愛することは、律法を全うすることを示されました。愛の負債は払い切れないものです、かえって愛の負債を負うことが神への愛を全とするのです。感謝しましょう。

 

◇2024年11月24日 ルカ1:5-25 「時が来れば成就する」 どうして祈り続けているのに、神様に求め続けているのに、応えてくださらないのか。神様は不誠実な方なのだろうか。このような疑問をお持ちになったことがあるでしょうか。 祭司であったザカリヤも、祭司アロンの家系に生まれた妻エリサベツも、「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行って」いました。それでもなお、彼らの長い間の祈りは聞かれませんでした。その事は彼らにとって、大変な悩みでした。 時が至ってある日。突然にも彼らの祈りが聞かれる時が来ました。 「すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。」 神様は彼の祈りに応えてくださったのに、御業を成そうとしていてくださるのに、彼は困惑し、恐れ、震え上がり、心はかき乱され、恐怖が彼の上にのしかかったのです。どうしてでしょうか。どうして彼の祈りは答えられ、良き知らせが彼に到来したのに彼はそれを受け入れることが出来ないのでしょうか。 「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ」しかし彼は時が遅すぎると嘆きます。しかし神様は、御使いを通してこう語られるのです。「時が来れば成就する」と。神様の時は来て、事は成就するのです。神様は、神様の最善の時に事を成就させてくださるのです。 

 

◇2024年11月17日 ヨハネ1:1-14 「神の子となる力を与えた」 ピリピ書も読み終わり、イエス様のご降誕を待ち望みつつ今日はヨハネ福音書の冒頭の言葉を味わいたく願います。 「初めに言があった」この言葉は、やはり創世記の冒頭の言葉を想起させるものです。 「はじめに神は天と地とを創造された」 それもそのはず、ヨハネはこの福音書の最後の方でこう語っています。 「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」 イエスという者は異端だ、自らを神と等しくして神を冒涜する者だと祭司や学者から非難を受けたイエス様でしたが、その実相は何であるのか、それがこの書の執筆目的です。 主イエス様は万物の創造の前から、初めから神と共におられた方であり、永遠に存在し続けるお方です。 このイエス様は父なる神と共に万物を創造されたお方です。 この方の内に命があり、これこそが人の光です。世は良き所に作られたのに、人の世は暗闇と死に覆われてしまいました。しかしこのイエス様のうちには光と命があります。 暗闇に光を、死と滅びの結末に贖いの赦しと命を与えるために来られたイエス様を受け入れるのかどうか。 「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」これがクリスマスのメッセージです。神様からの贈り物です。 

 

◇2024年11月10日 ピリピ4:15-23 「ご自身の栄光の富の中から」 先週の箇所でパウロは、「富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と語りました。彼はありとあらゆる境遇を通らされました。そして彼が達した結論は「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」というものでした。 今日はいよいよこの書の結語となるところです。 喜びなさいと繰り返し励ますパウロ。やはりピリピの教会にも困難が襲いかかっていたのでしょう。思い煩いがはびこっていたのでしょう。しかし私たちには祈りがある、聞いてくださる方がいて、私たちの人知なるちっぽけな範疇をはるかに超えて測り知れない神様の平安によって心も思いも人生の筋道も守られるという、そういうところに望みを置きなさい。主は近くにおられるから信仰をもって寛容と愛とを現し、かつてそうしてくれたように熱い心で患難を共にし、伝道者であるパウロを思う気持ちを再びいつも芽生えさせていてほしい。 「贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実」。神様のことを思い、患難をいとわず、その働きのために捧げるならば、神様はそのあふれる豊かさに従ってあなたの必要を満たしてくださる。私が有り余るほどに満たしを得ているように、あなたも。だからかんばしい、甘美な香り伴う愛の働きかけを続けてほしいとパウロは語るのです。

 

◇2024年11月3日 ピリピ4:10-14 「わたしを強くして下さるかたにより」 【今日の説教から】 「わたしが主にあって大いに喜んでいる」とあります。これは原語では「主にあって大いに喜ばされた」となり、自分から喜ぶというよりは、主が大いにパウロを喜ばせて下さったという意味です。何によって喜びがもたらされたのか、それはピリピの教会の人たちのパウロへの思いがついに復活したということです。 具体的にはどうやらピリピ教会による経済的な支援のようですが、パウロはそれ以上に彼らの心を喜んでいます。 物質的な必要を抱え、貧しさにあっても、彼はその中にあっても満ち足りている道を、経験を通して学び得ました。富の中にあっても彼はその富に踊らされず、「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と彼は語ります。 「こうでなければ私は幸せではない」と、私たちは幸せの条件を考えますが、その願いが叶ったからと言って、必ずしも幸せになるものでもありません。富むときにも貧しきときにも私たちを大いに喜ばせて下さるお方が共にいて、そのお方は私たちを力づけ、育て、私たちを強くしてくださる。そのお方が私たちと共におられれば、力づけて喜ばせて下さるから、私たちを取り巻く状況はどんなものであってもかまわない。これがパウロが至った境地であり、ピリピの人たちにもその喜びを知って欲しい、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」ことを知って欲しいとパウロは熱く語るのです。 

 

◇2024年10月27日 ピリピ4:1-9 「測り知ることのできない神の平安」 いよいよピリピ書も最後の章になりました。有名な、慰め深い次の箇所が登場しました。 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」 私たちは容易に心配し、不安になったり、気がかりになり、気をもみ、苦労し、懸念します。しかし私たちは神様を信じるように導かれた者です。むしろ心配に変えて、その正反対である感謝をささげることが出来ると聖書は語ります。私たちは私たちのために命を捧げるほどに愛してくださったキリスト・イエスによって神様に願うことが出来るからです。私たちは心の思いを、懸念を、痛みを、心配を包み隠さず神様にお知らせすることが出来ます。神様は聞いてくださいます。そして最善に導いてくださいます。感謝へと導いて下さいます。ですから私たちは先んじていつも感謝の心を持つことが出来ます。 私たちの心、思い、態度、姿勢、考え方、意図、意志、目的、理解、識別力をはるかに超える神様の平安が私たちと共にあり、私たちの心と考え、精神、秩序、筋道、計画と構想を全て見守り、保護してくださいます。それがイエス様にある私たちへの尊い御心なのです。ですから私たちは満ち足りて寛容に、神様の前に価値ある生き方が出来ます。

 

 ◇2024年10月20日 ピリピ3:12-21 「ご自身の栄光のからだと同じかたちに」 先週の箇所でパウロはこう語りました。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。…キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したい」 そして、今日の箇所でも彼はこう言っています。 「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」彼はキリストに出会うまではさまよっていた者でしたが、今はキリストとその復活の力によって生きるようになりました。しかし今日の箇所にありますように、彼はキリストのしもべとして力強く生き、多くの神様のわざを現しましたが、「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めている」というのです。そうするのは「キリスト・イエスによって捕えられているから」。 唯々彼はキリストによって捕らえられ、堅く主の手に留められていればこそ彼は進むのであり、彼自身としては完全に至るなんてとんでもないと言うのです。それでは修練は無意味なのでしょうか。彼はこう言います。「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」そうして歩みつつ、天の故郷を見上げつつ、主の到来と共に「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」日を待ち望むのです。

 

◇2024年10月13日 ピリピ3:1-11 「なんとかして復活に達したい」 パウロは獄の中にありました。それでも彼は恐れることなく大胆にピリピの教会の人たちを励まし続けましたが、彼の心の中に一縷の不安も無いわけではなかったと思います。 彼は獄にて、彼の今までの人生を振り返っていたことでしょう。かつてイエス・キリストを知る前の人生と、知らされた後の人生を比較したことでしょう。 「信じているのになぜ」という悲痛な叫びを時に耳にします。信仰をもってから、ぐるりと自分の考え方や在り方が変わることがあります。それによって幸せを感じる時もあれば、あるいは不幸を感じる時もあるかもしれません。 しかしパウロは「煩わしいことではない」、いらだたしく腹立たしく、うっとうしい、うんざりすることではなくて、あなたたちにとっての安全だ、護衛だと語ります。 かつては誰もがうらやむような完全な生活でした。何不自由なく、将来も嘱望されていました。落ち度のない完璧な存在でした。しかしキリストに出会ってから、今までは益と思っていたものが、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに家畜のふんやゴミとなったと言っています。 キリストを見出すことが命。彼はキリストの信仰のうちに命があると語ります。そこに復活の力が働くと語ります。苦難が襲い、死のさまと等しくなるような中にあっても、キリストを信じ生きる中には復活の力が働くから私は喜ぶことが出来ると彼は語ります。 

 

◇2024年10月6日 ピリピ2:19-30 「キリストのわざのために命をかけ」 獄中からのパウロの励ましの手紙です。獄の中。彼には事の「成行き」(23節)も分からず、「入獄の苦しみ」(1:17)がありました。時に彼は地上から取り去られ、天の安息に入れられたいとの願いがよぎりましたが、しかし彼はピリピの教会の人たちとの再会をより強く願うのでした。 教会の外からは投獄の迫害、それに加えて内にも党派心によって行動する人たちがいました。パウロはこの教えの根幹であるイエス様のことを人々に伝えます。そして彼自身についても、「祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう」と語りました。まことにパウロは主の道を自らの道として生きました。 またテモテもそうでした。「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない」 そしてエパフロデトもまた、死ぬばかりに「キリストのわざのために命をかけ」たのです。 パウロは「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」と語りました。「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」との通り、誰かが自分のために何かをして助けてくれるという考えから、自らが主のために、同胞のために何が出来るかを真剣に考えて、仕え合い、助け合い、キリスト・イエスの心を実現する者でありたいと願います。 

 

◇2024年9月29日 ピリピ2:12-18 「あなたがたのうちに働きかけて」 私たちは今日、聖書の言葉から、物事の中心におられるのはどなたであるかを学びたいと思います。 パウロの投獄の中、教会の外からの迫害と共に教会の中からの腐敗もあり、パウロは教会の信徒たちのことを案じ、祈っていました。獄の中、教会を励まし強めたいと思いながらも自由がありません。彼らはどうしているだろうか。揺れ動かされて信仰を失ってしまうのではないだろうか。そして自分のしてきたことが無駄に終わってしまうのではないだろうか。獄の中での彼の悩みには深いものがありました。そこでキリストを見てほしいと、彼は救いの核心について語りました。キリストと同じ気持ちを持って、へりくだり、他者を尊び、自分のことばかりでなく他人のことを考えること。パウロが近くにいなくても、教えられたことに忠実に従うこと。救いの達成まで気を緩めないこと。こう語りながら、彼は天を見上げます。そうだと、彼には再び天からの慰めがあるのです。神こそがまず初めに私たちの心の中に働きかけてくださるお方。神の良き御心の成就ために働くことを願う願いを私たちの心の中に起こしてくださるのは神ご自身。そうであれはつぶやかず、疑わず進めるではないか。どんなに曲がった邪悪な時代にあっても、私たちは責められるところなき夜空の星のような存在だ。自分のいのちを捧げるにふさわしいのが神。そして同胞。この道をつき進もうと決意するパウロなのでした。

 

◇2024年9月22日 ピリピ2:1-11 「キリスト・イエスと同じ思いを」 迫害を逃れて地下墓所に隠れながら礼拝を守った原始教会。後にそこで讃美歌のように歌われた詩、それが今日の箇所の6-11節です。 1節では、4重に畳みかけるようにもしあなたに…があるならとパウロは語りかけます。 キリストによる勧め(励まし)、愛の励まし(慰め)、御霊の交わり、熱愛とあわれみとがあなた方にはあるのだからと、パウロはピリピの信徒たちのうちにどんなにか愛と慰めがあるのかを示します。 2節にも、言葉を重ね合わせるように丁寧に語られます。 「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」 お一人のキリストを信じ、慰めと愛とを頂く者として、同じ思い、同じ愛の心、心を合わせ、一つ思いになって…と、これ以上にないほどに心を合わせ一つとなるようにと語るパウロ。「何事も党派心や虚栄からするのでなく」…それほどまでに教会を分裂させる嵐が吹き荒れていたということでしょうか。 「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者とし… おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」との生き方に導くものがここにあります。 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」 いつもいつもイエス様という中心が無ければ私たちはいとも簡単に扇の要を失ったようにバラバラになってしまうのですね。 

 

◇2024年9月15日 ピリピ1:27-30 「あなたがたには救のしるし」 「この世を去ってキリストと共にいること…実は、その方がはるかに望ましい」と語ったパウロですが、「しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。…わたしが再びあなたがたのところに行く。」と確信をもって語るパウロなのでした。 何がパウロをそこまで強くし、彼を愛の人として歩み続けさせたのでしょうか。 「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。…あなたがたが…一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、」とありますように、彼をそこまでさせたのは福音、神の良い知らせであるイエス・キリストでした。彼はイエス様に魅せられ、彼の人生はこの良き知らせによって一変しました。 しかしそこには内にも外にも敵対する人々がいました。狼狽し、脅かされたじろぎそうになったこともあるでしょう。しかし、キリストイエスを信じることはキリストの苦しみにあずかることをも賜ることなのですと彼は語ります。 どんなに力強く、誰の目に見ても明らかに反対する者の勢力が強く、打ち負かされたように見えたとしても、それは彼らの滅びのしるしであり、私たちには救いのしるしである。神様がそれを成してくださいます。私たちは常にキリストの苦難とともに復活にあずかる者なのです。 

 

◇2024年9月8日 ピリピ1:12-26 「再びあなたがたのところに行く」 パウロの獄中からの手紙を読み進めております。 彼は獄に捕らえられたことを肯定的に捉えています。それはすなわち、獄に捕らわれているのはキリストのためであることが獄の兵営全体に伝わったということ。これは使徒16章の獄での出来事を思うと納得できます。 次にパウロの入獄を機に、新たなる信仰の確信を得て、宣教の前進がなされたこと。 しかしもう一つの動きは、「ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり」、「わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心から」行っている人の存在でした。彼らはパウロの入獄をチャンスとして、自分の勢力を拡大しようとして手を広げるのです。しかしそうであっても要するにキリストが宣べ伝えられればそれでよいとパウロは語ります。 しかし、獄での苦しみや今後の不安も相まって、いっそ天に引き上げられたいと一度は願うパウロでした。しかしやはりピリピの教会の人たちのことを思うと、肉体にあってこの地上にとどまり、彼らに仕え助けることこそがさらに必要なことだと祈りを新たにするのでした。 「わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。…わたしが再びあなたがたのところに行く」との言葉は感動的です。主の熱愛に裏打ちされた感情と行動を私たちも得たいと願います。 

 

◇2024年9月1日 ピリピ1:7-11 「義の実に満たされて」 先週の箇所に続き、迫害のゆえに獄に入れられているパウロの、ピリピの教会にいる信徒たちヘの熱い語り掛けが記してあります。 「あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか…」とのパウロの言葉は感動的です。 苦しみの時。しかしその中にあっても「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」とのパウロの励ましがありました。そしてパウロは祈り続けるのです。 「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至る…」 愛が増し加わるためには深い知識と洞察力が必要で、それによって何がより重要かを見つけ、それによって純粋で正直、良心の曇りのない者となり、義の実を実らせる。これはイエス様が手ずから私たちになしてくださることであり、栄光と賛美とに至るのです。私たちも神様の愛によってますます聡く、神に応答する者でありたいと願います。

 

◇2024年8月25日 ピリピ1:1-6 「良いわざを完成して下さる」 このピリピ書は、エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙と共に、パウロによって獄中にて書かれた手紙です。 獄中にて、迫害と困難の中書かれた手紙に似つかわしくなく、そこには「喜びなさい」という言葉が繰り返し書かれています。 今日の箇所にも、「私の神に感謝」、「喜びをもって祈り」、「感謝している」、「良いわざを始められた方がそれを完成して下さるに違いないと確信している」という力強い信仰と感謝にあふれた内容となっています。 私たちが人生を歩むとき、順風満帆の時があれば、逆風の中を行くような、困難で辛い、何をやってもうまくいかない、どんどんと窮して先細りになっていくような、思うようにいかずに沈んでいくばかりのような、まるで牢の中にいるような思いに苛まれることがあるかもしれません。 良心を固く保って良き業を重ねてきたのにどうしてこのような仕打ちに会わなければならないのかと、神を恨む気持ちが湧き起こることもあるかもしれません。 信じてずっと来たのにこのような目に合うとは、神様はそもそも存在などしないのではないかとの深い失望を体験することもあるかもしれません。 そのような心にこそこの獄中書簡の御言葉は響くものと思います。パウロは獄の中にあって何を見て、何を経験して、何を語るのか。信仰者の生き方を深く学ぶことが出来るのです。 

 

◇2024年8月18日 1ヨハネ5:16-21 「このかたは真実な神」 ついに1ヨハネの手紙の最後となりました。「死に至ることのない罪」と「死に至る罪」という言葉が恐ろし気に迫ります。不安になります。私は大丈夫だろうかと恐怖に苛まれます。しかしこの書は私たちに何を伝えようとしていたのかを思い起こしましょう。 「神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるため…神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち…」 そしてこの言葉に目を留めてください。 「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」 罪を犯さない。これは罪を犯し続けないという意味をも持ちます。 圧巻の3回重ねての「私たちは知っている」です。何を私たちは知っているのでしょうか。それは私たちは罪を犯し続けることが出来ないということ、イエス様が守っていてくださるので悪しき者は手を触れることはできないということ、真実な方を知る知力を授けて下さるということです。 そして「真実」という言葉が3回。「真実なかたを知る知力」、「わたしたちは、真実なかたにおり」、「このかたは真実な神であり、永遠のいのち」。私たちは神から生まれ、罪と死から引き離されていることを喜びましょう。 

 

◇2024年8月11日 1ヨハネ5:13-15 「われは幼子 われ主にすがらん」 「われは幼子われ主にすがらん 小さくあれど 信仰いだきて. 絶えず主イェスの手に依りすがらん. 静けき昼も 風吹く夜も」 「主がわたしの手を 取ってくださいます どうして怖がったり 逃げたりするでしょう 優しい主の手に 全てを任せて 旅ができるとは何たる恵みでしょう」 今朝、静かに私たちは私たちが寄りすがることのできるお方に心を馳せたいと思います。 「誰もたどり着く 大川(おおかわ)も平気です 主がついておれば わけなく越えましょう 優しい主の手に 全てを任せて 旅ができるとは 何たる恵みでしょう」 私たちをはぐくみ育ててくださった父祖は今、このお優しい神様の懐に抱かれています。 子が父に何も求めないとしたら、父は悲しい気持ちになるのではないでしょうか。どうして子は自分に頼ってくれないのか。この願いに応える力がないと思われているのか。願ってもどうせ聞いてくれないとあきらめているのか。 それでは、私たちは父なる神様に対してどのような思いを持っているのでしょうか。 私たちが父なる神様はどういうお方であるかをよく知っていれば、この願いは必ず聞かれると知ることが出来ます。嵐や困難があろうとも、神様との父子の関係の中、今週も共に進んでまいりましょう。

 

◇2024年8月4日 1ヨハネ5:1-12 「世に勝つ者はだれか」 「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」(ヨハネ6:29) 私たちは人生を誤りなく過ごしたいと願い、祝福と繁栄を手にしたいと願います。神様の御心深くを悟り行いたいと願います。そのための鍵は何でしょうか。今日の聖書にはこう書いてあります。 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である」、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」、「すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」、「神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにある…御子を持つ者はいのちを持」つ。 私たちはイエス様を信じ、それによって神様から生まれたものであることを知っています。遣わされたものを信じる、これこそが神様のおきてであり、私たちは神様から遣わされた御子を信じることによって世に勝利しています。 イエス様は聖霊によって人として生まれて来られ、水による洗いをもって私たちに模範を示し、十字架の死によって血をもって私たちを贖い、私たちをきよめ、贖い、聖霊で満たしてくださいます。このお方を一心に信じて今週も進みましょう。 

 

◇2024年7月28日 1ヨハネ4:13-21 「愛には恐れがない」 今日の箇所では愛の力強さが描かれています。 1コリント6:10にはこのようにあります。 「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 私たちには揺れ動くことのない愛の標準があります。それはイエス・キリストによって示された神様の愛です。 「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」その神様の愛の姿は、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」とある通りです。 神様がそこまでして、それほどの犠牲を払って私たちを愛してくださったのならば、私たちが支払うことのできない犠牲があるでしょうか。神様の愛を知れば知るほど、私たちの心は固く定まるのです。 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」恐れはありません。しがらみも躊躇もありません。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったから」ここに生命線があります。 

 

◇2024年7月21日 1ヨハネ4:7-12 「愛は、神から出たものなのである」 家族愛、親子愛、夫婦愛、友愛、師弟愛、博愛…。愛という言葉を挙げればきりがありません。愛、それは辞書によれば、「いつくしみ合う心」「生あるものをかわいがり大事にする」「いとしいと思う心。互いに相手を慕う情」 「好み、大切に思う気持ち」 「個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」などと書かれています。 それでは聖書は愛をどのように説明しているのでしょうか。 「愛は、神から出たもの」「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされた」 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」 聖書でいう「愛」とは、私たちの温かな心、優しい心を言う前に、始めに私たちに示された神の愛、罪ある人間のために贖いの供え物として、たった一人の神の御子を十字架につけて赦しを与えてくださったという、神様から出たものであると書かれています。 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とありますが、ここに愛の最大の模範があります。愛のオリジナルがあります。神から出たものである愛を知るには、神様からそれを教えていただく必要があり、それが御子による犠牲の愛だと聖書は語るのです。

 

◇2024年7月14日 1ヨハネ4:1-6 「あなたがたは神から出た者」 前章にはこのようにありました。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。…それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。…神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。」 イエス様は私たちに愛を現わされ、私たちの模範となってくださいました。このイエス様を信じて、このイエス様によって生きたいと願う人は新たに生まれ変わっています。そして神の霊を頂いています。 「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているもの…。」 イエス様が肉体をとってこの世界に来られた。このことを告白する者は神の霊を頂いています。いや、神の霊によらなければそう告白することはできません。それは、イエス様が肉体をとられたということ、つまり霊である方、神であるお方が人となられたということです。そして私たちの世界に来られ、その肉体を、命を十字架におささげになられたということを信じるということです。神であるイエス様がこうして私たちに与えてくださった救いを信じます。  

 

◇2024年7月7日 1ヨハネ3:19-24 「心に責められるようなことがあっても」 先週の箇所には、このようなものがありました「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。…子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」 それに続けてこのように書かれています。「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」 神様の愛をいかに深く知り、その愛を心の糧として生き方の指針として心に深く宿しているか。いかにその主の愛を実践しているか。それによって私たちが真理に属しているかが分かる。たとえ心に葛藤があり、これでいいのだろうかという悩みがあったとしても、心に罪責感によるとがめを感じたとしても、その愛に生きることによって私たちは心を安んじることが出来、「神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っている」という心からの告白は、私たちを完全にし、願うものを受ける確信をもたらすと書いてあります。それほどに、主イエス様を信じ、その愛に生きるということが核心であることを聖書は語るのです。 

 

◇2024年6月30日 1ヨハネ3:11-18 「死からいのちへ移ってきた」 「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」と始まった3章ですが、私たちの望みは、将来イエス様が現れる時、そのありのままの姿を見て、私たちが主に似るものになるということでした。聖霊が宿り、私たちはいつもキリストにつながれ、この方を目指す生き方に入れられました。その生き方において、「兄弟を愛する」ということは当然の行路ですが、罪と悪魔の惑わしの中、どれだけ多くの方々がこの真理から迷い出ているのでしょうか。 カインのように、自らの悪行を自覚する者にとっては正しい者を抹殺せずには自分の立つ瀬がないというまでに破壊的な思いに心は苛まれるのです。「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。」とある通りです。 しかし、「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている」と聖書は言い切ります。 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」 私たちが道に迷い、頓珍漢なことをしない為にただ一つ知るべきことは、主と主の愛を知ることです。主の愛にとどまっていれば、良き行いが生まれ、命の中に留まるのです。  

 

◇2024年6月23日 1ヨハネ3:1-10 「神から生れた者」 わたしたちは、すでに神の子、私たちは今や神の子。そうなるために、どんなに大きな愛を父から賜ったことでしょうか。そして私たちの行く末は、ついにイエス様を直接目の前に、間近に見て、イエス様に似た者にされるということ。そこに至って初めて似せられるのではなくて、その希望を持つがゆえに、そこに至るまで、主がきよいように、自らを洗いきよめるとあります。 4節からは「罪」という言葉が10回、「悪魔」という言葉が4回出てきます。 「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。」 罪を行わそうと誘い惑わす存在。まとわりつく罪の中、義を行い義人とされる-神が求めるもの、正しき事を行い、神の標準、水準、意志、望み、神様のご人格と品性に従い、順応し、合致・適合する。私たちは十分にこれをやり遂げることが出来るのでしょうか? 「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。」 神から生まれたものは全て罪を犯し続けない。神の種がその人のうちにとどまっているから、罪を犯すことが可能であり続けることはない。 一時は道を外れても、神の種である聖霊を宿す者は罪を犯し続けることが出来ない。そして聖霊により、神の望むことを行うことが出来ると聖書は語ります。これが希望です。 

 

◇2024年6月16日 1ヨハネ2:24-29 「義を行う者」 久しぶりにヨハネの手紙に戻ってまいりました。今日の箇所から少し前に戻り、22・23節にはこうありました。 「偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリスト…御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つ」 そして今日の箇所にも次のようにあります。「あなたを惑わす者たち」「偽り」「来臨に際してみ前に恥じいる」 私たちには惑わしと偽りの力が働き、初めから聞いたものから引き離し、父と御子から引き離そうとする力が働いています。 一方祝福の言葉が次のように書かれています。 「御子を告白する者は父をも持つ」「初めから聞いたことが…うちにとどまっておれば…御子と父との内に留まる」 「これが…約束…すなわち、永遠のいのち」 「うちにはキリストから頂いた油がとどまっているので…教えてもらう必要がない…その油が教えたように…彼のうちにとどまっていなさい」 「子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい…彼が現れる時に確信を持ち…御前に恥じいることがないため」 父、御子、聖霊(油)が、私たちを決して離さずにつなぎとめようと働かれます。とどまっていなさい、とどまっていなさいと神様は語られます。そこに私たちの生命線があります。すなわちそれは「義を行う」ということなのです。 

 

◇2024年6月9日 使徒2:40-47 「よろこびと、まごころとをもって」 「数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかた」そのイエス・キリスト、ダビデが遥か彼方に「わが主」と呼んだこのお方を不法の人たちの手を借りてあなた方は十字架にかけたのですとの舌鋒鋭いペテロの説教の後、多くの人たちは強く心を刺され、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。 「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受ける」、そして「この曲った時代から救われよ」とペテロは語りました。 不正でいんちきな、非を認めず頑迷、強情で不誠実なごまかしの時代。しかしその邪悪な時代から救いに入った人たちが三千人いました。弟子らは教えと、交わりと聖餐と祈りに生きました。皆の心には神様への畏敬の念が湧きあがりました。その彼らを通して神様の奇跡としるしが湧き起こりました。信仰のうちに共にいた人々の間に共有の心が生まれ、日々心を一つにして共に集う彼らの心には率直さと素朴さ、純真さと謙遜が、そしてこの上ない喜びありました。これはあの「曲がった」状態と正反対です。神様の教えのうちに日々共に集う愛の交わりに、人々の好意が生じ、神様は日々救われる人たちを共に導いてくださいました。私たちの交わりを今日も見ている方々があります。 

 

◇2024年6月2日 使徒2:29-42 「曲った時代から救われよ」 「聖霊を受ける」ということが私たちにとって、教会にとって、宣教にとって、どれほど大きな意味があるかということを教えられる箇所です。 ペテロはダビデの預言を通して、聖霊が与えられた事と、イエス様が死から復活された事の意味を力強く語りました。 「わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない」という言葉は、ダビデ自身のためのものではなく、イエス様のことを表すダビデの預言であることを力説しました。ダビデは墓の中にいて、朽ち果ててしまったが、イエス様は墓の中にはいなかったからです。 「その子孫のひとりを王位につかせよう…」、また「主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい」との預言から、ダビデは王でありながら、自身の子孫である王を自らの主と告白しました。 ダビデが自らに勝る主、王、その方は黄泉に捨て置かれず、その聖者は朽ち果てることがないと言ったその方こそ、「神は、主またキリストとしてお立てになった」イエス様であるとペテロは語りました。 何という方に何ということをしてしまったのかという心を刺す痛烈な呵責の声を前にして、彼は悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、曲がった邪悪な時代から救われよと語りました。曲がった邪悪な時代から救われる唯一の道がここにあります。 

 

◇2024年5月26日 使徒2:21-28 「いのちの道」 イエス様はかつて弟子たちにこういわれました。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 そして聖霊が下り、ガリラヤ出身の弟子たちは、炎のような舌を受けて、聖霊が語らせるままに世界隅々の言葉で神様の大きな働きを語りました。 驚き惑う人たちを前に、ペテロは説教を始めます。 「主の名を呼び求める者は、みな救われる」「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞」いてください。 イエス様がなさった力ある業と奇跡としるしを思い出してください。この方こそ神様から遣わされた方。この贖いは神様の計画と予知によるものではあるが、あなた方は不法に十字架に殺したのです。しかし、神様はこのイエス様を死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。イエス様が死に支配されているなど、そんなことは不可能です。 ダビデも言いました。彼はいつも主を目の前に見て、心は動揺しなかった。心は喜び、舌はさらに喜び、肉体は望みのゆえに生きると。ああ、私の魂を黄泉に捨て置かず、朽ち果てさず、命の道を示し、喜びに満たしてくださる。彼はイエス様のたどられる道を知り、自分の慰めとしました。 この御名、主イエス様の御名を呼び求める者は、今日も救われます。この方こそ命の道、望みの巌なのです。困難の世にありて、喜びの舌をもってこの御名を告げましょう。 

 

◇2024年5月19日 使徒2:1-13 「神の大きな働きを述べるのを聞く」 過越の食事の日から50日目。ペンテコステ(五旬節)はユダヤ三大祭りの一つです。春の収穫感謝の日であり、出エジプトの50日後にシナイ山にてモーセに十戒が与えられた記念の祝いの日、ユダヤ人男性はこの三大祭りの日にエルサレムの神殿に向かい主を礼拝しました。世界各地に離散したユダヤ人が集まり、世界からの改宗者たちがエルサレムの神殿に集う、まさにその時に主の約束は果たされました。 イエス様はかつて弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われました(ヨハネ20:22)。そしてこうも言われました。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」 舞台は整いました。「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。そしてそのそれぞれの言語で語られた内容とは、神様の大きな、全能のお働きについてでした。 いよいよ世界伝道の幕が切って落とされました。もはやこの教えは、ユダヤ人だけのものではなく、弟子たちだけのものではなく、世界に伝えられる教えとなったのです。 

 

◇2024年5月12日 使徒1:3-11 「復興なさるのは、この時なのですか」 「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」。 私たちは、イースターの時以来、ずっとご自分の姿を現し続け、弟子たちにその復活のお姿を見せてくださいましたイエス様のことを聖書から学んでまいりました。 ご自身が「生きていること」を「数々の確かな証拠によって」現わしてくださいましたイエス様は、今日も生きておられ、私たちに数々の確かな証拠をお知らせくださり、今日もご自分が生きておられることを示し続けていてくださいます。 弟子たちはイスラエルの国の復興を強く望んでいました。復興しなければならないということは、今の国の状態は荒れ果てていたということです。それは国がローマの属州となり、総督の下に置かれていたということだけではないはずです。それはイエス様を目の敵にして十字架につけた者たちが祭司長であり、律法学者たちであり、最高法院の議員たちであったこともあるのではないでしょうか。 イエス様はその復興は、父なる神様のお約束の通り、弟子たちが聖霊を受けて力を受けて近くから、地の果てにまで、全世界にイエス・キリストの証しを立てることによってもたらされると語られました。主が再び来られるとき、この世界はどのような所となっているのでしょうか。世界の復興のため立ち上がりましょう。 

 

◇2024年5月5日 マタイ28:1-20 「いつもあなたがたと共にいる」 いよいよ再来週にペンテコステ(聖霊降臨日)が近づきました。今日はマタイ福音書から復活後の主に出会いましょう。 稲妻のように光り輝き、衣は雪のように真っ白な御使いが現れると、主の墓を守っていた兵たちは恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになりました。主は恐るべきお力で、私たちの目に見えるどんなに大きな障害でも簡単に取り除くことが出来、そして私たちに「平安あれ、恐れるな」と語られます。恐れを知らない祭司長たちは長老と集まって、偽装工作を画策し、兵卒たちにたくさんの金を与えて弟子たちが主の遺体を盗んでいったとの証言をさせましたが、それがここに明るみになっているということは、人の愚かな偽装は必ず明るみに出ることを物語っています。 祭司長、長老、兵卒が神様のすさまじい力による出来事を封じ込めようと偽装を巡らせている中、肝心の主の弟子たちの中にはなお信じていない者がありました。イエス様は弟子たちに言われました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」だから「行って、弟子とし、洗礼を授け、教えよ、世の終わりまでいつもあなたと共にいる」と語られます。主は全ての権威をお持ちの方です。私たちが誰の下に就き、どのような命令を守るべきかは明白です。主はいつまでもともにおられます。恐れずに私達は出て行き、主の弟子となる方々と出会わせて頂きたいと願います。 

 

◇2024年4月28日 ヨハネ20:24-31 「信じて命を得るため」 またも弟子たちは戸をしっかりと閉ざしていました。彼らは未だ恐れの中にありました。 この箇所ではよくトマスの不信仰と回心が語られますが、他の弟子たちも五十歩百歩であることが分かります。 トマスは自分が集会に出ていなかったことにより復活の主に出会い損ねたという状況の中にあり、なおかつ他の弟子たちの、復活の主に出会ったという証言をそのまま額面通りに自分の信じるところとすることもできずに悶々としていました。彼は聞いたことを信ぜよとの目撃者たちからのプレッシャーのゆえに、心をかたくなにしたのでしょうか、それとももともとの性格だったのでしょうか、自分の目で見、それも主の傷跡に手を差し入れてでも確認しなければ信じないぞと宣言しました。主の手のひらの釘の傷の後に指を差し入れ、わき腹に手のひらを差し入れてみなければ信じないと言いましたが、そこまでするというのはいかにも異常です。主がいたらそんなことは恐れ多くて出来ないはずです。しかしそこまでしなければ信じないというのは、見たのに未だ恐れている他の弟子たちを見ていたせいかもしれません。 いずれにしても、主は彼らに再び現れ、真ん中に立たれました。主はトマスの言葉を聞いておられ、あなたが信じられるまで好きなようにしたらよいと語られます。トマスはたまらずにひれ伏します(おそらくそうしたでしょう)。私たちの前にもわが主、わが神はいつも共にいてくださいます。 

 

◇2024年4月21日 ヨハネ20:19-23 「だれの罪でもゆるされる」 ルカ福音書より復活の記事を読み進めておりましたが、今日はヨハネの福音書です。 女性たちが空の墓にて御使いたちに出会った時、イエス様との会話があったとここでは記してあるのが興味深いです。 そして今日の箇所はその日曜日の夕方のこと。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を全て閉めて(鍵をかけて)いました。エマオに行こうとしたクレオパたちもやはり恐れのあまりエルサレムを脱出したのだろうかという風にも思われます(しかし彼らは夕方、宿屋で祈りパンを割かれる方を主だと気付いて喜んでエルサレムに取って返しました)。クレオパたちがエルサレムに戻った時、弟子たちもまた主に出会ったと互いに話し合っていたとの記述があり、それが今日のヨハネの箇所の出来事だったのでしょうか。朝に夕に、イエス様は何回も女性たちと弟子たちにお現われになりました。 恐れの中に閉ざされている弟子たち。その彼らに「安かれ」と語られ、釘で割かれた傷をお見せになるイエス様。弟子たちは主を見て喜びました。イエス様はもう一度「安かれ」と語られると、弟子たちに息を吹きかけ、「私はあなたを遣わす」「聖霊を受けよ」と語られました。 ペンテコステの出来事と共に力を受け、大胆に出ていく弟子たちですが、彼らが受けた使命は「罪の赦し」でした。聖霊を受け、迫害の恐れから立ち上がり、進む彼らの使命は、敵を愛し赦すことでした。今日も私たちは遣わされ赦すために強められているのです。 

 

◇2024年4月14日 ルカ24:36-53 「非常な喜びをもってエルサレムに帰り」 主の復活の後の弟子たちの様子を読み進めております。 「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」とのイエス様のお言葉を先週は心に刻みました。「目が開けて、それがイエスであることがわか」るまで、彼らはどれだけ多くの時間を要したことでしょうか。主が隣におられるのに、彼らはどうしてそこまで長く気が付かなかったのでしょうか。しかし、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と語ったように、イエス様は私たちの目を覚ますために今日も御言葉を語りかけ、私たちの鈍感な、真理と主の御心を悟る目を開くべく、語り続けてくださいます。イエス様は今日の箇所でもこう語られました。 「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。」 主は手を天に挙げて弟子たちを祝福し、彼らを離れていきました。彼らはもはや恐れることなく非常な喜びをもってエルサレムに戻っていきました。恐怖をもいとわず、喜びの中、証しを続けました。 

 

◇2024年4月7日 ルカ24:13-35 「彼らの目が開けて」 「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」これが復活の主のメッセージでした。主は今日も生きておられます。しかし私たちは、主を目前にしながらいつもまるで主が墓の中にいるかのように失望して、胸は霧に閉ざされ、目が、心が固く閉じているのです。 このエマオの途上の出来事は大変滑稽です。イエス様が目の前におられるのに、彼らはそうとも気付かずにイエス様はどこに行ってしまったのかとお話ししているのです。フットプリント(足あと)という賛美が思い出されます。 「主と私で歩いてきたこの道 足あとは二人分 でもいつの間にか一人分だけ 消えてなくなっていた 主よ、あなたはどこへ行ってしまったのですか 私はここにいるあなたを背負って歩いてきたのだ あなたは何も恐れなくてよい 私が共にいるから」 私たちは、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい、私たちと共に人生を過ごしてください、主よ」と願いますが、主は元から私たちと共にいてくださったのです。私たちは愚かで心鈍く、主が語られた大切な御言葉をすぐに忘れてしまいます。しかしその御言葉こそが私たちの目を開く鍵です。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と語られたように、御言葉こそが私たちの人生を照らす光です。  

 

◇2024年3月31日 ルカ24:1-12 「なぜ生きた方を死人の中に」 神様は、私たちが分からず屋で忘れっぽく、悲観主義で臆病なのを見て、どんなにやきもきしていらっしゃることでしょうか。 神様はいつも私たちに良いものを満たし、恐れることはないように強力にエスコートしていてくださるのに、私たちは怖い、怖いと言って途方に暮れ、顔も上げられず、立ち尽くし、見なくてもいいことに心を奪われ、気付くべきことには気付かない、物事を最悪のほうにしか考えられず、勝手な「常識」の枠だけですべてを判断しようとして、信仰も希望も愛も失ってしまう、力なく弱い、自力本位の私たち、神様を排除して、神様のお励ましを忘れて、自力で進んで、しかしそれが力なき、悪い結果になる、そういう私たちに対して、神様はどれだけじれったいお気持ちでいらっしゃるのでしょうか。 「どうして信頼してくれないの!どうして信じて頼ってくれないの?どうして物事を悪い方向ばっかりにして考えられないの?どうして私の愛に応えて信頼して、幸せになれないの?こんなにあなたのことを愛してあなたのために考えているのに」と、これは人と人との会話ではなくて、神様から私たちへのメッセージなのです。 私たちは、神様をどのような存在だと思っているのでしょうか。別に信じたければ信じればいい、気休め程度に、という風に思っているのでしょうか。いえいえ、神様に頼るということは、ものすごい力であることを信じたいのです。  

 

◇2024年3月24日 ルカ23:44-56 「神の国を待ち望んでいた」 イエス様の受難の週となりました。 「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」 昼の12時。太陽が最も力を発揮するときにも関わらず、その光を失い、全地が暗くなって3時間にも及びました。 イザヤ53章にこうあります。 「彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」 昼の12時から3時といえばもっとも太陽が輝く時です。しかしその光は失われ、闇があたりを包みました。 人は神の子イエス様を、その暴虐なさばきによって、蹂躙によって取り除きました。 「全地は暗くなって」との「暗い」という言葉は、罪とか邪悪という意味をも含みます。 全地は罪と邪悪の暗闇の影響の中に飲み込まれてしまったのでしょうか。昼の光、義の光は暗闇に飲み込まれてしまったのでしょうか。 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1章) 全地が罪と邪悪によって暗い闇に閉ざされていると感じる時があります。私たちの人生の中でもそんな閉塞感に押しつぶされそうになる時があります。しかし神様は光です。イエス様は世に来られた「すべての人を照すまことの光」です。ここに命があります。

 

◇2024年3月17日 ルカ22:54-65 「主は振りむいてペテロを見つめられた」 「顧みる」という言葉があります。これは後ろをふりかえり、気にかけて心配するという意味があります。時に人は自分のことばかり考えて、周囲の人のことを顧みる余裕を失うことがあります。 ペテロはあんなに熱気を込めて、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言いましたが、今日の聖書の箇所では、その舌の根も乾かぬうちに、夜のうちに、完膚なきまでにイエス様のことを見限ってしまいました。 彼は勇敢でした。彼のみが、捕らえられていくイエス様と共に大祭司の庭にまで赴きました。彼はその言葉の通りに勇敢で立派でした。しかしその彼の意気をくじくことが波のように彼を襲いかかります。ある女中は彼を凝視して、言いました。「この人もイエスと一緒にいました」 「イエス様と共にいる者」。これが彼の喜びでした。これが彼の生きる道でした。彼は何もかも捨てて主に従い、その人生は何にも勝る幸せでした。しかし今彼は自分がイエス様と共にいたものであることを否定するのです。 彼は無我夢中に自分の命を困難から救い出すのに必死でした。なりふりをかまっている余裕はありませんでした。それが二度、三度と続きます。私たちも必死になるあまり主を忘れ、主を否定してはいないでしょうか。しかしここに主の顧みがあります。主はどんな困難の中でも私たちにふりかえって私たちを見つめ、愛し続けててくださるのです。 

 

◇2024年3月10日 ルカ22:24-34 「給仕をする者のように」
イエス様はこう語られました。
「あなたがたのために与えるわたしのからだ」、「あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約」、「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6章)。
罪と死から解き放たれ、私たちを神のものとするイエス様の愛と命の新しいきずなを得て、神の家族のお交わりを頂くのですが、弟子たちの間には空虚な議論がありました。それは誰がより有力で、誰が群れを支配するのかという主導権争いでした。それはサル山で武闘によってボス猿を決めるようなレベルの話でした。
イエス様は「かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」と語られました。
給仕する、待つ、じっと見て、心配して、世話をする。そして仕える。神の子が私たちにそのようにして下さるのです。
外見は良くても中は空っぽであれば、ふるいにかけられた時、吹き飛んでしまいます。
しかし所詮私たちはそのような存在です。しかしそこにイエス様の祈りがあるのです。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」
この主への恩と感謝から互いの交わりが生まれるのです。


◇2024年3月3日 ルカ22:7-23 「切に望んでいた」
先週は「主がその子ろばをお入り用なのです。ほどいて引いてきなさい」との御言葉を頂きました。主は私たちを必要とされ、私たちをお求めになられ、御子の贖いによって私たちを罪の縄目からほどいてくださいました。
今日もまた権威ある主は「弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます」との言葉を弟子たちに託すと、果たしてその通りに過ぎ越しの食事をする部屋に導かれました。
主は部屋を求めておられます。私たちは主がおとどまりになられる部屋を用意しているでしょうか。門前払いをしてはいないでしょうか。
「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日」。過ぎ越しの子羊は屠られなければなりません。主はパンとぶどう酒を取って弟子たちと食事をなさいます。そして私の記念としなさいと言われました。主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6章)と語られました。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」と言われました。
主はまさしく過ぎ越しの子羊として、私たちから死を過ぎ来させるためのいけにえとなられ、私たちの命と、血肉となるために死なれました。主は自らを、私たちに命を与えるための糧として、飲み物としてご自分をお捧げになられました。このお方をいつも記念し、お伝えしたく願います。

 

◇2024年2月25日 ルカ19:28-48 「主がお入り用なのです」
先週から受難節に入っております。今日はエルサレム入城の箇所です。ここから最後の1週間が始まります。今日から6回にわたり、主の受難と復活を読み進めてまいりたく思います。
ゼカリヤ9:9にはこうあります。
「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」
「子馬」と訳されていますが、これは「子ろば」のことです。ギリシャ語では子ろばと子馬を区別していませんが、ヘブライ語では「子ろば」と書かれています。馬は足が速く、しばしば軍馬として用いられますが、ろばはその用には役立ちません。しかも子ろばです。これは、平和と主の謙遜の象徴であると考えられます。
「主がお入り用なのです」。これも有名な箇所です。直訳すれば、「このろばの主(所有者)が必要を抱いておられる」ということになります。世界の主であられる神様は、この子ろばの所有者でもあられます。ひと時人にその所有を委ねておられますが、絶対的には主なる神様の所有のもとにあります。それをほどいて、解放して、絶対的な所有者のもとへ連れ行け。それは全て罪につながれている人たち、すなわちすべての人間を罪から解き放って悪の所有のもとから神様のもとへと解き放つための身代わりの業が予兆されているのです。


◇2024年2月18日 1ヨハネ2:18-23 「真理を知っているから」
「子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。
父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである」と、先週の個所ではこのように高らかに語られました。
そのようにして高らかに宣言される清き勝利の交わりを裂く出来事が起こりました。それが反キリストです。
これは終わりの日の出来事であり、「わたしたち」と深くたもとを分かつ出来事でした。
彼らはすべて不真実であり、嘘であり、非現実であり、まやかしと偽造に満ちています。その中に真実はありません。
どうしてそのような一派が「わたしたち」の中から生まれるのか。真理から迷い出て、帰ってこようとしないのか。「わたしたち」との言葉が4回も繰り返されています。そのあまりの頑固さと不真実さには、最初から共にいるものではなかったと結論付ける外はありませんでした。
最後的な、どうしようも取り返しのつかない出来事。キリストと父なる神を否定して、否定して、否定する反キリストの姿に、悲しみが広がります。しかしあなたは油注がれ、聖霊に満たされ、真理を知っている。知っている、知っていると、3回にわたって「知っている」という言葉が繰り返されます。父、御子、御霊のお守りに唯感謝します。

 

◇2024年2月11日 1ヨハネ2:12-17 「永遠にながらえる」
この章の初めにこういう書き出しがありました。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」そして彼は読者に目標の設定をしました。
今日の個所にも「あなたがたにこれを書きおくる(おくった)のは…」との語りかけが6回も出てきます。かつても書き送ったが、今も書き送る。あなたがたの多くの罪が赦されたから。あなたがたが初めからいますかたを知ったから。神の言葉があなたがたに宿り、悪しき者に打ち勝ったから。
子たちよ、父たちよ、若者たちよと繰り返し語られます。
初めからいます創造主を知り、その言葉があなたの内に宿るなら、多くの罪が赦され、悪しきものに打ち勝つから、老いも若きも神様のもとに来たりて、そして聞きなさい、世と世にあるものを愛してはならない、世にあるもの、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは世から出たものであり、それらは過ぎ去るから、父の愛の中にあり、父から出るものを望み、神のみ旨を行いなさい、そうすれば父の愛は彼の内にあり、目の向けどころが正しければ父から出た良きものを享受し、世と世にある者は過ぎ去っても、神のみ旨を行う者は永遠に永らえるから、目の付け所に用心しなさい、あなたは神を知り、罪赦され、御言葉により悪しきものに打ち勝ったのだから、その中を進み続けなさいと御言葉は私たちに語りかけます。

 

◇2024年2月4日 1ヨハネ2:7-11 「兄弟を愛する者は、光におる」
古来より人々は、神様のお言いつけにより、自らの罪のためのいけにえとして動物のいのちを捧げ続けてきました。
人は罪ある者であり、神様の前に進み出ることがかなわず、そのために、なだめの供え物を必要としていました。
しかし新しい時代が来て、新しい契約が神様からもたらされました。それはすなわち、「わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリスト」が与えられたということであり、「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」という、この神の御子の供え物が与えられ、一方的に、ただ神様の恵みによって赦しが与えられ、神様との和解がなされたということです。
古い戒め(旧約)は去り、それに勝る新しい契約がもたらされました。新しい契約が、古い契約を全うし、成就し、飲み込んだのです。
それは輝ける神様の愛と恵み、光と愛の世界です。無条件の赦しの愛です。それが真理、それが「やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いている」ということです。そんな赦しの、慈しみの光の中にいながら、どうしてまだ人を赦せないでいるのでしょうか。何の条件もなく赦された私たちが、どうして人に許される条件をたたきつけるのでしょう。神の赦しの愛を本当に知っている人は人をも赦します。そしてその人は罪につまずくことがないのです。

 

◇2024年1月28日 1ヨハネ2:1-6 「その人のうちに、神の愛が真に全うされる」
今日の聖書の個所は前半と後半とに分かれています。まず前半には、結論的なこと、「私たちが罪を犯さないようになること」というゴールが掲げられますが、その出発点として、私たちは「罪を犯す者」であることが述べられます。
その前提の上で「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」、そして「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」ということが語られます。
その贖いと赦しを得たうえで、後半部分に入ります。
3節と4節は同じことが繰り返し語られます。すなわち、主の戒めを守るならば主を知っているということです。
そして5節、主の御言葉を守るということは、「神の愛が真に全うされる」とあります。主を知り、主のおきてを行うのならば、「神の愛が真に全うされ」、それと同時に、私たちが主と共にあることを知るのです。
「知る」ということと、「ある」ということ、赦されて戒めを守るように変えて頂くことと、そうして神の愛が全うされること、そして神にある者は、主イエス様が歩かれたように自らも歩く、これが罪を犯さないようになる道であると今日の聖句は語ります。

 

◇2024年1月21日 1ヨハネ1:5-10 「わたしたちも光の中を歩くならば」
先週からこの第一ヨハネの手紙を読み進めております。
先週の箇所には「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」とありました。
私たちは遠く神様から隔たっていた者でしたが、今はイエス様の十字架による贖いにより、神に近い者とされ、神の子とされ、父なる神様と、愛する御子とのお交わりの中に入れて頂いているということは何と幸いなことでしょうか。
神様とのお交わりに入れられているということは、どういう事でしょうか。
「神は光であって、神には少しの暗いところもない。 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているならわたしたちは偽っている」とありますように、神様は光であって、一点の暗闇もない、そういうお方とお交わりを頂いているということに初めは違和感を感じたのです。私たちの心を探る時、私たちの心の中に一点のやましい所も、身勝手なところも、醜い所もないと決して言い切れないのが私たちであり、そのことのゆえに神様の光の中に出ることに難しさを感じる。連続しない思いが生ずる。そこに恐れず生ずるというのが私たちの偽らざる思いではないでしょうか。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」この一点にかかっているのです。ですから私たちは罪を告白できるのです。そしてすべては光にさらされ、きよめられ、私たちは神様との交わりに入れられるのです。

 

◇2024年1月14日 1ヨハネ1:1-4 「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」
ヨハネの福音書の書き出しを思い起こさせるこの1ヨハネの手紙です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
初めからあったもの、世の初めから存在し、神と共にあられたお方が私たちに聞かれるもの、私たちに見られるもの、よく見て触れることが出来るまでに近づかれたということ、そしてそれはいのちの言葉であったということ。
私たちにその交わりが与えられました。それは親しい相互の交わりです。それは父なる神様と、御子イエス・キリストとの交わりです。父なる神様は、子なるキリストを通してご自身を現されました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(ヨハネ14:6-7)
父なる神様はこの御子を通してご自身との交わりを私たちにお与えになられました。御子は私たちための尊い命の道であり真理です。迷わぬようにしっかりと見つめましょう。

 

◇2024年1月7日 イザヤ43:1-5 「恐れるな、あなたはわたしのもの」
新年のご挨拶を申し上げます。元日に能登の地に大きな被害をもたらした大地震が起こり、翌日には羽田空港で大型旅客機が燃え上がる大事故が起こりました。一体今年はどういう年になるのだろうかと不安に思われた方も多くおられたのではないでしょうか。
「一寸先は闇」という言葉のある通り、私たちには一瞬の先に起こる出来事を知ることが出来ません。突如として襲い掛かる災厄。青天の霹靂とは言いますが、気付けば家が濁流に飲み込まれ、火炎が渦巻く火の中水の中に投じられるように、突如として人生の歩みが言いしれない困難の渦中に投げ込まれ、不安と悲しみの中に沈み込み、焼きつき燃やし尽くすような心の痛みに貫かれる時があります。
そんな時、私たちは今日の御言葉を思い起こします。
「あなたを創造された主はこう言われる…恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」
あなた、あなた、あなたと、私たちを呼び続けていて下さるお方がいらっしゃいます。そのお方は天地万物の造り主であり、私たち一人一人をお造りになられた方です。そのお方が、世界のすべてを昔も、今も、これからも統べ治めておられるお方が私たちを「わが子」と呼んで身代わりの御子を捧げて守り抜いて愛し抜いて救い出して下さるのです。その方が「恐れるな」と語られるのです。私たちは贖われ、自由の身とされているのです。

 


 

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