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説教要旨

◇2025年1月12日 創世記12:1-8 「わたしが示す地に行きなさい」 新たな年となりまして、1月も、はや半分が過ぎました。 大変に寒い日々が続いております。お元気にお過ごしでしたか。 先週は年初とのことで創世記1章から御言葉を味わい、今日は創世記12章、アブラムが75歳にして神様の示す地に出発した出来事を読み進めてまいりましょう。 思えば、アブラムの父テラは、アブラムとその妻サライ、そして孫であるロトを連れて、ウルからハランまで、1000km以上もの距離を移動し、そこで亡くなりました。 神様はアブラムに、さらに800キロメートル離れたカナンへの移動を命じられます。父との別れの地を去り、もうこれ以上は移動したくないという親族もいたのかもしれません。神様は「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と語られました。 心細い小さな集まり。しかし神様はこう約束なさいました。 「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」 神様は小さな民を偉大にし、祝福し、全世界への祝福の基となさいます。私達日本のクリスチャン、そしてこの教会の私たちは小さい群れかもしれませんが、神様が偉大にして祝福のもといとするとの御言葉を噛み締めましょう。私たちはいつも礼拝の場に戻り、祈りと心を捧げて主を待ち望みます。 

 

◇2025年1月5日 創世記1:1-5 「神はその光とやみとを分けられた」 新年のご挨拶を申し上げます。 年の初めに天地創造の聖書の箇所を味わいましょう。 「はじめに神は天と地とを創造された」。ここには何も神の起源については記してありません。神様は永遠の昔からおられ、これからも永遠に生き続けるお方、世界の創造の起源であるお方です。ここには「天と地」、「闇と光」、「昼と夜」、「夕と朝」という対極が列記されています。 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり…」ここには、原初世界の空虚と混沌、無為と寂しさとが満ち、従ってそれはすなわち闇であったと記してあります。そして、底知れぬ水、底が見えない深淵、地獄のようなどん底の表面に不気味に暗闇が覆っているのです。何という恐ろしい原初世界なのでしょう。そこは光明も命もない世界なのです。 そして、従って、それから、神の霊(息)はその深淵の水の上をホバリングするのです。舞い駆けて巡るのです。親鳥が巣の卵やひなを気にかけて、寵愛して羽で新鮮な風を送って温度を調整して生きる環境を整えるように、聖霊が駆け巡っていました。 ついに神様は「光あれ」と言われ、光が出来ました。そして、従って、神様は光と闇とを分けられたのです。闇は光から隔絶されました。深淵の混沌も、茫洋とした世界も、空虚さもむなしさも、光の後に隔絶されました。ここに光として、人の命として来られたイエス様の贖いを見ます。 

 

◇2024年12月29日 ルカ2:22-40 「主のつかわす救主に会う」 クリスマスのお祝いを済ませ、一年の締めくくりの週を迎えました。2024年、今年は皆さまにとってどのような年だったでしょうか。 アドベントから始まり、神様からの様々な信仰のテストを受けるような出来事を見てまいりました。私も妻ももう年を取っていると連発していたザカリヤに、神様は何事も可能であることを示されました。 どうしたらそんなことが分かるだろうか、理解不能だという事が人生にあったとしても、私たちの理解自体が何物でもないという事、神様は人知をはるかに超えたお方であるという事を知らされるのです。 マリヤにしても、愛する人との破綻や、身の危険をも顧みず、神様の言葉に身を預けていく姿、自分のことばかりではなく国を憂える姿とその祈りは感動的でした。 贖い主、救い主であるメシヤ、イエス様がお生まれになられるというのに、「客間には彼らのいる余地がなかった」。これは人の心の暗闇を現しています。 しかし今日の箇所には赤ちゃんの姿でありながら主が遣わされた救い主であると気付いた二人の人たちが登場します。シメオンは赤ちゃんイエス様に出会い、「わたしの目が今あなたの救を見た」と言い、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます」と語り、アンナも84歳でしたが、その霊の目ははっきりと見開いていました。年を重ねてもますます心の目鋭く主の救いをほめたたえましょう。 

 

◇2024年12月22日 ルカ2:1-21 「彼らのいる余地がなかった」 「客間には彼らのいる余地がなかった」何という残酷な言葉でしょうか。寒い夜、暗い夜、マリヤは身重なのに、ヨセフもそれはそれは必死になっていいなづけのために場所を探し回ったことでしょう。彼女だけ一人だけでもと、どれだけ懇願したことでしょう。しかしその必死の働きかけもむなしく状況は進んでいきました。あわよくば、この住民登録から帰って、ナザレに戻ってから出産できるかもしれない。彼らには予測と希望がありましたが、ことごとく望むところを外れていました。 「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったから…」 ヨハネ1章のこの御言葉が思い出されます。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」 しかし、ところがのところがです。これらはすべて神様のご計画と深いご配慮なのでした。それらのすべての苦しみや考えもつかないことは、「しるし」だったのです。 「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」 神様は天に居場所を失ってしまった私たちを救うため、身代わりとなって私たちを神の子としてくださったのです。 

 

◇2024年12月15日 ルカ1:39-58 「喜びおどりました」 来週はクリスマスです。「もろびとこぞりて」は有名なクリスマスの賛美歌ですが、英語の歌いだしは"Joy to the world, the Lord is come!"であり、「世界よ喜べ、主は来られた」です。 今日の箇所の中にも何回「喜び」という言葉が書かれていることでしょうか。バプテスマのヨハネは、主を証しする者にふさわしく、母の胎の中にいる時からイエス様の母マリアの声を聞いたとたんにおなかの中で飛び抜けた尋常ではない喜びによって跳ね回ったと聖書に2回記されます。 マリアもこれを見て、「わたしのたましいは主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます」と語りましたが、これは「私のたましい、私自身、最も心の深いところにある存在、私の内なる命は、主を拡大する、引き伸ばす、延長する」という意味になります。つまり、私の全存在は、神様を今までよりももっともっと大きな存在として、そば近い助けとして感じていますとの意味です。そしてわがたましい、内なる命、心の状態は、わが救い主、贖い主、導き主のゆえにこの上なく尋常でなく喜ぶと語られます。 主をあがめ、喜ぶという事。これは今まで以上に主はいつくしみと憐れみに満ちた方だと知り、この上なく極度に、非常に嬉しく思い、喜ぶという事なのです。 神様によって、私たちの全存在に、内なる命、最も心深くに恵みと憐れみが働きかけるのです。それがクリスマスなのです。 

 

◇2024年12月8日 ルカ1:26-38 「神にできないことは何一つない」 高齢の出産は稀に起こりうることですが、処女懐胎は絶対に起こり得ないこととして医学では理解されます。 天使の言葉。それは「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」でした。彼女は深く当惑し、胸騒ぎがしました。そして彼女は自分の身に起こるはずもないことを告げ知らされます。 神様が私たちを導かれる道。それは時に深く当惑し、戸惑い、悪い胸騒ぎのする道かもしれません。危険と困難と恐れが漂う道かもしれません。 それは婚約者ヨセフの考えからも分かります。「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」(マタイ1章) これは離縁ものであったのです。それ以上に、マリアにとっては姦通罪の刑に会うような出来事だったのです。 しかしマリアはそれらの心配事に対する説明を一切求めませんでした。彼女はただ起こり得る要素がないと語りました。恐れもせずに、受け入れたくないとも言わずに、どうやったらそんなことが実現するのかと問いました。 「神には、なんでもできないことはありません」これが答えでした。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられ」る、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいている」「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおう」。これらの言葉はそのまま受け入れるべき恵みの言葉なのです。 

 

◇2024年12月1日 ローマ13:8-10 「愛は律法を完成する」(横山晋次先生) 愛の本質は、愛せば愛すほど、愛さねばならないのが愛です。なお愛さねばならないという負債が残るのが愛で、愛の負債は返せないのです。「人を愛する者は律法を全うするのである」(ローマ13;8b)。信仰とは私たちの神への応答を言い表したものです。ルターに始まります「信仰のみ」という主張は、私たちが神に愛されるために何の条件もつけられない、これが福音です。私たちの心を解放するのです。自由にされるのです。これがルターのいう「キリスト者の自由」であります。 「主のあなたに求められることは、ただ公儀をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と歩むことではないか」(ミカ6:8)、これをハバククは1つにまとめ、「義人は仰によって生きる」(ハバクク2:4)と(高橋三郎「新稿ローマ書講義下」山本書店180頁)。「人間が人間になるのは、自己を他者にゆだねることである」(ヤスパース)。「最早我生くるにあらず。キリスト、我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。神様に委ねまかせて、主にあって生きていく時にいろんなものが実現していくのです。それらのものは神の国、神の義に添えて与えられるのです(奥村修武師) ローマ13:8~10で、愛の負債について、学びました。主を愛し、隣人・特に挙で働く敵を愛することは、律法を全うすることを示されました。愛の負債は払い切れないものです、かえって愛の負債を負うことが神への愛を全とするのです。感謝しましょう。

 

◇2024年11月24日 ルカ1:5-25 「時が来れば成就する」 どうして祈り続けているのに、神様に求め続けているのに、応えてくださらないのか。神様は不誠実な方なのだろうか。このような疑問をお持ちになったことがあるでしょうか。 祭司であったザカリヤも、祭司アロンの家系に生まれた妻エリサベツも、「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行って」いました。それでもなお、彼らの長い間の祈りは聞かれませんでした。その事は彼らにとって、大変な悩みでした。 時が至ってある日。突然にも彼らの祈りが聞かれる時が来ました。 「すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。」 神様は彼の祈りに応えてくださったのに、御業を成そうとしていてくださるのに、彼は困惑し、恐れ、震え上がり、心はかき乱され、恐怖が彼の上にのしかかったのです。どうしてでしょうか。どうして彼の祈りは答えられ、良き知らせが彼に到来したのに彼はそれを受け入れることが出来ないのでしょうか。 「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ」しかし彼は時が遅すぎると嘆きます。しかし神様は、御使いを通してこう語られるのです。「時が来れば成就する」と。神様の時は来て、事は成就するのです。神様は、神様の最善の時に事を成就させてくださるのです。 

 

◇2024年11月17日 ヨハネ1:1-14 「神の子となる力を与えた」 ピリピ書も読み終わり、イエス様のご降誕を待ち望みつつ今日はヨハネ福音書の冒頭の言葉を味わいたく願います。 「初めに言があった」この言葉は、やはり創世記の冒頭の言葉を想起させるものです。 「はじめに神は天と地とを創造された」 それもそのはず、ヨハネはこの福音書の最後の方でこう語っています。 「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」 イエスという者は異端だ、自らを神と等しくして神を冒涜する者だと祭司や学者から非難を受けたイエス様でしたが、その実相は何であるのか、それがこの書の執筆目的です。 主イエス様は万物の創造の前から、初めから神と共におられた方であり、永遠に存在し続けるお方です。 このイエス様は父なる神と共に万物を創造されたお方です。 この方の内に命があり、これこそが人の光です。世は良き所に作られたのに、人の世は暗闇と死に覆われてしまいました。しかしこのイエス様のうちには光と命があります。 暗闇に光を、死と滅びの結末に贖いの赦しと命を与えるために来られたイエス様を受け入れるのかどうか。 「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」これがクリスマスのメッセージです。神様からの贈り物です。 

 

◇2024年11月10日 ピリピ4:15-23 「ご自身の栄光の富の中から」 先週の箇所でパウロは、「富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と語りました。彼はありとあらゆる境遇を通らされました。そして彼が達した結論は「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」というものでした。 今日はいよいよこの書の結語となるところです。 喜びなさいと繰り返し励ますパウロ。やはりピリピの教会にも困難が襲いかかっていたのでしょう。思い煩いがはびこっていたのでしょう。しかし私たちには祈りがある、聞いてくださる方がいて、私たちの人知なるちっぽけな範疇をはるかに超えて測り知れない神様の平安によって心も思いも人生の筋道も守られるという、そういうところに望みを置きなさい。主は近くにおられるから信仰をもって寛容と愛とを現し、かつてそうしてくれたように熱い心で患難を共にし、伝道者であるパウロを思う気持ちを再びいつも芽生えさせていてほしい。 「贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実」。神様のことを思い、患難をいとわず、その働きのために捧げるならば、神様はそのあふれる豊かさに従ってあなたの必要を満たしてくださる。私が有り余るほどに満たしを得ているように、あなたも。だからかんばしい、甘美な香り伴う愛の働きかけを続けてほしいとパウロは語るのです。

 

◇2024年11月3日 ピリピ4:10-14 「わたしを強くして下さるかたにより」 【今日の説教から】 「わたしが主にあって大いに喜んでいる」とあります。これは原語では「主にあって大いに喜ばされた」となり、自分から喜ぶというよりは、主が大いにパウロを喜ばせて下さったという意味です。何によって喜びがもたらされたのか、それはピリピの教会の人たちのパウロへの思いがついに復活したということです。 具体的にはどうやらピリピ教会による経済的な支援のようですが、パウロはそれ以上に彼らの心を喜んでいます。 物質的な必要を抱え、貧しさにあっても、彼はその中にあっても満ち足りている道を、経験を通して学び得ました。富の中にあっても彼はその富に踊らされず、「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と彼は語ります。 「こうでなければ私は幸せではない」と、私たちは幸せの条件を考えますが、その願いが叶ったからと言って、必ずしも幸せになるものでもありません。富むときにも貧しきときにも私たちを大いに喜ばせて下さるお方が共にいて、そのお方は私たちを力づけ、育て、私たちを強くしてくださる。そのお方が私たちと共におられれば、力づけて喜ばせて下さるから、私たちを取り巻く状況はどんなものであってもかまわない。これがパウロが至った境地であり、ピリピの人たちにもその喜びを知って欲しい、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」ことを知って欲しいとパウロは熱く語るのです。 

 

◇2024年10月27日 ピリピ4:1-9 「測り知ることのできない神の平安」 いよいよピリピ書も最後の章になりました。有名な、慰め深い次の箇所が登場しました。 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」 私たちは容易に心配し、不安になったり、気がかりになり、気をもみ、苦労し、懸念します。しかし私たちは神様を信じるように導かれた者です。むしろ心配に変えて、その正反対である感謝をささげることが出来ると聖書は語ります。私たちは私たちのために命を捧げるほどに愛してくださったキリスト・イエスによって神様に願うことが出来るからです。私たちは心の思いを、懸念を、痛みを、心配を包み隠さず神様にお知らせすることが出来ます。神様は聞いてくださいます。そして最善に導いてくださいます。感謝へと導いて下さいます。ですから私たちは先んじていつも感謝の心を持つことが出来ます。 私たちの心、思い、態度、姿勢、考え方、意図、意志、目的、理解、識別力をはるかに超える神様の平安が私たちと共にあり、私たちの心と考え、精神、秩序、筋道、計画と構想を全て見守り、保護してくださいます。それがイエス様にある私たちへの尊い御心なのです。ですから私たちは満ち足りて寛容に、神様の前に価値ある生き方が出来ます。

 

 ◇2024年10月20日 ピリピ3:12-21 「ご自身の栄光のからだと同じかたちに」 先週の箇所でパウロはこう語りました。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。…キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したい」 そして、今日の箇所でも彼はこう言っています。 「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」彼はキリストに出会うまではさまよっていた者でしたが、今はキリストとその復活の力によって生きるようになりました。しかし今日の箇所にありますように、彼はキリストのしもべとして力強く生き、多くの神様のわざを現しましたが、「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めている」というのです。そうするのは「キリスト・イエスによって捕えられているから」。 唯々彼はキリストによって捕らえられ、堅く主の手に留められていればこそ彼は進むのであり、彼自身としては完全に至るなんてとんでもないと言うのです。それでは修練は無意味なのでしょうか。彼はこう言います。「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」そうして歩みつつ、天の故郷を見上げつつ、主の到来と共に「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」日を待ち望むのです。

 

◇2024年10月13日 ピリピ3:1-11 「なんとかして復活に達したい」 パウロは獄の中にありました。それでも彼は恐れることなく大胆にピリピの教会の人たちを励まし続けましたが、彼の心の中に一縷の不安も無いわけではなかったと思います。 彼は獄にて、彼の今までの人生を振り返っていたことでしょう。かつてイエス・キリストを知る前の人生と、知らされた後の人生を比較したことでしょう。 「信じているのになぜ」という悲痛な叫びを時に耳にします。信仰をもってから、ぐるりと自分の考え方や在り方が変わることがあります。それによって幸せを感じる時もあれば、あるいは不幸を感じる時もあるかもしれません。 しかしパウロは「煩わしいことではない」、いらだたしく腹立たしく、うっとうしい、うんざりすることではなくて、あなたたちにとっての安全だ、護衛だと語ります。 かつては誰もがうらやむような完全な生活でした。何不自由なく、将来も嘱望されていました。落ち度のない完璧な存在でした。しかしキリストに出会ってから、今までは益と思っていたものが、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに家畜のふんやゴミとなったと言っています。 キリストを見出すことが命。彼はキリストの信仰のうちに命があると語ります。そこに復活の力が働くと語ります。苦難が襲い、死のさまと等しくなるような中にあっても、キリストを信じ生きる中には復活の力が働くから私は喜ぶことが出来ると彼は語ります。 

 

◇2024年10月6日 ピリピ2:19-30 「キリストのわざのために命をかけ」 獄中からのパウロの励ましの手紙です。獄の中。彼には事の「成行き」(23節)も分からず、「入獄の苦しみ」(1:17)がありました。時に彼は地上から取り去られ、天の安息に入れられたいとの願いがよぎりましたが、しかし彼はピリピの教会の人たちとの再会をより強く願うのでした。 教会の外からは投獄の迫害、それに加えて内にも党派心によって行動する人たちがいました。パウロはこの教えの根幹であるイエス様のことを人々に伝えます。そして彼自身についても、「祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう」と語りました。まことにパウロは主の道を自らの道として生きました。 またテモテもそうでした。「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない」 そしてエパフロデトもまた、死ぬばかりに「キリストのわざのために命をかけ」たのです。 パウロは「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」と語りました。「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」との通り、誰かが自分のために何かをして助けてくれるという考えから、自らが主のために、同胞のために何が出来るかを真剣に考えて、仕え合い、助け合い、キリスト・イエスの心を実現する者でありたいと願います。 

 

◇2024年9月29日 ピリピ2:12-18 「あなたがたのうちに働きかけて」 私たちは今日、聖書の言葉から、物事の中心におられるのはどなたであるかを学びたいと思います。 パウロの投獄の中、教会の外からの迫害と共に教会の中からの腐敗もあり、パウロは教会の信徒たちのことを案じ、祈っていました。獄の中、教会を励まし強めたいと思いながらも自由がありません。彼らはどうしているだろうか。揺れ動かされて信仰を失ってしまうのではないだろうか。そして自分のしてきたことが無駄に終わってしまうのではないだろうか。獄の中での彼の悩みには深いものがありました。そこでキリストを見てほしいと、彼は救いの核心について語りました。キリストと同じ気持ちを持って、へりくだり、他者を尊び、自分のことばかりでなく他人のことを考えること。パウロが近くにいなくても、教えられたことに忠実に従うこと。救いの達成まで気を緩めないこと。こう語りながら、彼は天を見上げます。そうだと、彼には再び天からの慰めがあるのです。神こそがまず初めに私たちの心の中に働きかけてくださるお方。神の良き御心の成就ために働くことを願う願いを私たちの心の中に起こしてくださるのは神ご自身。そうであれはつぶやかず、疑わず進めるではないか。どんなに曲がった邪悪な時代にあっても、私たちは責められるところなき夜空の星のような存在だ。自分のいのちを捧げるにふさわしいのが神。そして同胞。この道をつき進もうと決意するパウロなのでした。

 

◇2024年9月22日 ピリピ2:1-11 「キリスト・イエスと同じ思いを」 迫害を逃れて地下墓所に隠れながら礼拝を守った原始教会。後にそこで讃美歌のように歌われた詩、それが今日の箇所の6-11節です。 1節では、4重に畳みかけるようにもしあなたに…があるならとパウロは語りかけます。 キリストによる勧め(励まし)、愛の励まし(慰め)、御霊の交わり、熱愛とあわれみとがあなた方にはあるのだからと、パウロはピリピの信徒たちのうちにどんなにか愛と慰めがあるのかを示します。 2節にも、言葉を重ね合わせるように丁寧に語られます。 「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」 お一人のキリストを信じ、慰めと愛とを頂く者として、同じ思い、同じ愛の心、心を合わせ、一つ思いになって…と、これ以上にないほどに心を合わせ一つとなるようにと語るパウロ。「何事も党派心や虚栄からするのでなく」…それほどまでに教会を分裂させる嵐が吹き荒れていたということでしょうか。 「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者とし… おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」との生き方に導くものがここにあります。 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」 いつもいつもイエス様という中心が無ければ私たちはいとも簡単に扇の要を失ったようにバラバラになってしまうのですね。 

 

◇2024年9月15日 ピリピ1:27-30 「あなたがたには救のしるし」 「この世を去ってキリストと共にいること…実は、その方がはるかに望ましい」と語ったパウロですが、「しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。…わたしが再びあなたがたのところに行く。」と確信をもって語るパウロなのでした。 何がパウロをそこまで強くし、彼を愛の人として歩み続けさせたのでしょうか。 「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。…あなたがたが…一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、」とありますように、彼をそこまでさせたのは福音、神の良い知らせであるイエス・キリストでした。彼はイエス様に魅せられ、彼の人生はこの良き知らせによって一変しました。 しかしそこには内にも外にも敵対する人々がいました。狼狽し、脅かされたじろぎそうになったこともあるでしょう。しかし、キリストイエスを信じることはキリストの苦しみにあずかることをも賜ることなのですと彼は語ります。 どんなに力強く、誰の目に見ても明らかに反対する者の勢力が強く、打ち負かされたように見えたとしても、それは彼らの滅びのしるしであり、私たちには救いのしるしである。神様がそれを成してくださいます。私たちは常にキリストの苦難とともに復活にあずかる者なのです。 

 

◇2024年9月8日 ピリピ1:12-26 「再びあなたがたのところに行く」 パウロの獄中からの手紙を読み進めております。 彼は獄に捕らえられたことを肯定的に捉えています。それはすなわち、獄に捕らわれているのはキリストのためであることが獄の兵営全体に伝わったということ。これは使徒16章の獄での出来事を思うと納得できます。 次にパウロの入獄を機に、新たなる信仰の確信を得て、宣教の前進がなされたこと。 しかしもう一つの動きは、「ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり」、「わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心から」行っている人の存在でした。彼らはパウロの入獄をチャンスとして、自分の勢力を拡大しようとして手を広げるのです。しかしそうであっても要するにキリストが宣べ伝えられればそれでよいとパウロは語ります。 しかし、獄での苦しみや今後の不安も相まって、いっそ天に引き上げられたいと一度は願うパウロでした。しかしやはりピリピの教会の人たちのことを思うと、肉体にあってこの地上にとどまり、彼らに仕え助けることこそがさらに必要なことだと祈りを新たにするのでした。 「わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。…わたしが再びあなたがたのところに行く」との言葉は感動的です。主の熱愛に裏打ちされた感情と行動を私たちも得たいと願います。 

 

◇2024年9月1日 ピリピ1:7-11 「義の実に満たされて」 先週の箇所に続き、迫害のゆえに獄に入れられているパウロの、ピリピの教会にいる信徒たちヘの熱い語り掛けが記してあります。 「あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか…」とのパウロの言葉は感動的です。 苦しみの時。しかしその中にあっても「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」とのパウロの励ましがありました。そしてパウロは祈り続けるのです。 「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至る…」 愛が増し加わるためには深い知識と洞察力が必要で、それによって何がより重要かを見つけ、それによって純粋で正直、良心の曇りのない者となり、義の実を実らせる。これはイエス様が手ずから私たちになしてくださることであり、栄光と賛美とに至るのです。私たちも神様の愛によってますます聡く、神に応答する者でありたいと願います。

 

◇2024年8月25日 ピリピ1:1-6 「良いわざを完成して下さる」 このピリピ書は、エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙と共に、パウロによって獄中にて書かれた手紙です。 獄中にて、迫害と困難の中書かれた手紙に似つかわしくなく、そこには「喜びなさい」という言葉が繰り返し書かれています。 今日の箇所にも、「私の神に感謝」、「喜びをもって祈り」、「感謝している」、「良いわざを始められた方がそれを完成して下さるに違いないと確信している」という力強い信仰と感謝にあふれた内容となっています。 私たちが人生を歩むとき、順風満帆の時があれば、逆風の中を行くような、困難で辛い、何をやってもうまくいかない、どんどんと窮して先細りになっていくような、思うようにいかずに沈んでいくばかりのような、まるで牢の中にいるような思いに苛まれることがあるかもしれません。 良心を固く保って良き業を重ねてきたのにどうしてこのような仕打ちに会わなければならないのかと、神を恨む気持ちが湧き起こることもあるかもしれません。 信じてずっと来たのにこのような目に合うとは、神様はそもそも存在などしないのではないかとの深い失望を体験することもあるかもしれません。 そのような心にこそこの獄中書簡の御言葉は響くものと思います。パウロは獄の中にあって何を見て、何を経験して、何を語るのか。信仰者の生き方を深く学ぶことが出来るのです。 

 

◇2024年8月18日 1ヨハネ5:16-21 「このかたは真実な神」 ついに1ヨハネの手紙の最後となりました。「死に至ることのない罪」と「死に至る罪」という言葉が恐ろし気に迫ります。不安になります。私は大丈夫だろうかと恐怖に苛まれます。しかしこの書は私たちに何を伝えようとしていたのかを思い起こしましょう。 「神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるため…神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち…」 そしてこの言葉に目を留めてください。 「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」 罪を犯さない。これは罪を犯し続けないという意味をも持ちます。 圧巻の3回重ねての「私たちは知っている」です。何を私たちは知っているのでしょうか。それは私たちは罪を犯し続けることが出来ないということ、イエス様が守っていてくださるので悪しき者は手を触れることはできないということ、真実な方を知る知力を授けて下さるということです。 そして「真実」という言葉が3回。「真実なかたを知る知力」、「わたしたちは、真実なかたにおり」、「このかたは真実な神であり、永遠のいのち」。私たちは神から生まれ、罪と死から引き離されていることを喜びましょう。 

 

◇2024年8月11日 1ヨハネ5:13-15 「われは幼子 われ主にすがらん」 「われは幼子われ主にすがらん 小さくあれど 信仰いだきて. 絶えず主イェスの手に依りすがらん. 静けき昼も 風吹く夜も」 「主がわたしの手を 取ってくださいます どうして怖がったり 逃げたりするでしょう 優しい主の手に 全てを任せて 旅ができるとは何たる恵みでしょう」 今朝、静かに私たちは私たちが寄りすがることのできるお方に心を馳せたいと思います。 「誰もたどり着く 大川(おおかわ)も平気です 主がついておれば わけなく越えましょう 優しい主の手に 全てを任せて 旅ができるとは 何たる恵みでしょう」 私たちをはぐくみ育ててくださった父祖は今、このお優しい神様の懐に抱かれています。 子が父に何も求めないとしたら、父は悲しい気持ちになるのではないでしょうか。どうして子は自分に頼ってくれないのか。この願いに応える力がないと思われているのか。願ってもどうせ聞いてくれないとあきらめているのか。 それでは、私たちは父なる神様に対してどのような思いを持っているのでしょうか。 私たちが父なる神様はどういうお方であるかをよく知っていれば、この願いは必ず聞かれると知ることが出来ます。嵐や困難があろうとも、神様との父子の関係の中、今週も共に進んでまいりましょう。

 

◇2024年8月4日 1ヨハネ5:1-12 「世に勝つ者はだれか」 「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」(ヨハネ6:29) 私たちは人生を誤りなく過ごしたいと願い、祝福と繁栄を手にしたいと願います。神様の御心深くを悟り行いたいと願います。そのための鍵は何でしょうか。今日の聖書にはこう書いてあります。 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である」、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」、「すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」、「神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにある…御子を持つ者はいのちを持」つ。 私たちはイエス様を信じ、それによって神様から生まれたものであることを知っています。遣わされたものを信じる、これこそが神様のおきてであり、私たちは神様から遣わされた御子を信じることによって世に勝利しています。 イエス様は聖霊によって人として生まれて来られ、水による洗いをもって私たちに模範を示し、十字架の死によって血をもって私たちを贖い、私たちをきよめ、贖い、聖霊で満たしてくださいます。このお方を一心に信じて今週も進みましょう。 

 

◇2024年7月28日 1ヨハネ4:13-21 「愛には恐れがない」 今日の箇所では愛の力強さが描かれています。 1コリント6:10にはこのようにあります。 「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 私たちには揺れ動くことのない愛の標準があります。それはイエス・キリストによって示された神様の愛です。 「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」その神様の愛の姿は、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」とある通りです。 神様がそこまでして、それほどの犠牲を払って私たちを愛してくださったのならば、私たちが支払うことのできない犠牲があるでしょうか。神様の愛を知れば知るほど、私たちの心は固く定まるのです。 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」恐れはありません。しがらみも躊躇もありません。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったから」ここに生命線があります。 

 

◇2024年7月21日 1ヨハネ4:7-12 「愛は、神から出たものなのである」 家族愛、親子愛、夫婦愛、友愛、師弟愛、博愛…。愛という言葉を挙げればきりがありません。愛、それは辞書によれば、「いつくしみ合う心」「生あるものをかわいがり大事にする」「いとしいと思う心。互いに相手を慕う情」 「好み、大切に思う気持ち」 「個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」などと書かれています。 それでは聖書は愛をどのように説明しているのでしょうか。 「愛は、神から出たもの」「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされた」 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」 聖書でいう「愛」とは、私たちの温かな心、優しい心を言う前に、始めに私たちに示された神の愛、罪ある人間のために贖いの供え物として、たった一人の神の御子を十字架につけて赦しを与えてくださったという、神様から出たものであると書かれています。 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とありますが、ここに愛の最大の模範があります。愛のオリジナルがあります。神から出たものである愛を知るには、神様からそれを教えていただく必要があり、それが御子による犠牲の愛だと聖書は語るのです。

 

◇2024年7月14日 1ヨハネ4:1-6 「あなたがたは神から出た者」 前章にはこのようにありました。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。…それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。…神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。」 イエス様は私たちに愛を現わされ、私たちの模範となってくださいました。このイエス様を信じて、このイエス様によって生きたいと願う人は新たに生まれ変わっています。そして神の霊を頂いています。 「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているもの…。」 イエス様が肉体をとってこの世界に来られた。このことを告白する者は神の霊を頂いています。いや、神の霊によらなければそう告白することはできません。それは、イエス様が肉体をとられたということ、つまり霊である方、神であるお方が人となられたということです。そして私たちの世界に来られ、その肉体を、命を十字架におささげになられたということを信じるということです。神であるイエス様がこうして私たちに与えてくださった救いを信じます。  

 

◇2024年7月7日 1ヨハネ3:19-24 「心に責められるようなことがあっても」 先週の箇所には、このようなものがありました「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。…子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」 それに続けてこのように書かれています。「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」 神様の愛をいかに深く知り、その愛を心の糧として生き方の指針として心に深く宿しているか。いかにその主の愛を実践しているか。それによって私たちが真理に属しているかが分かる。たとえ心に葛藤があり、これでいいのだろうかという悩みがあったとしても、心に罪責感によるとがめを感じたとしても、その愛に生きることによって私たちは心を安んじることが出来、「神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っている」という心からの告白は、私たちを完全にし、願うものを受ける確信をもたらすと書いてあります。それほどに、主イエス様を信じ、その愛に生きるということが核心であることを聖書は語るのです。 

 


 

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