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説教要旨

◇2026年8月2日 ヨハネ2:1-12 「あなたがたに言いつけることは、なんでも」
「ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった」
ユダヤ人たちは聖書の教えに従って、熱心に身のきよめを行っていました。
しかし聖書は、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラテヤ2:16)と語ります。
料理がしらは「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」と語りました。良いものは先、悪いものは後。しかし神様のご計画はそれとは逆でした。
神様は水の洗いをもってしても清め尽くすことの出来ない人間の心深くに巣くう罪の問題を、イエス様の血潮による贖い、新しい契約よって解決してくださいました。それは初めのものと比べて比較できないほどに尊いものです。
「だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」(マタイ9章) 私たちは新しい時代に生きているのです。

 

◇2026年7月26日 ヨハネ1:35-51 「来て、見なさい」
「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。
富田正樹さんとおっしゃる牧師の聖地旅行記にはこう書いてあります。
「聞けばナザレは、数十名ほどの人々が集まって細々と暮らしていた、非常に貧しい集落だったといいます。まともな建物を建てることもできず、洞窟の中などを主とした地下生活で雨風をしのぐ生活だったということなのです。…『ナザレから何か良いものが出るだろうか』…これは『ナザレ出身者にろくな奴はいないだろう』という差別発言です。今で言うならば部落差別…にも相通じるものがある、ナザレ人差別です。つまりイエスは出身地による差別を受けている被害者であります。
このナザレという、人々から蔑まれた小さな集落で、イエスはおよそ30歳頃になるまで育ち…」
「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない…わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」
イスラエル人にとっていちじくの木の下にいるということ、それは意味ある事でした。
日差しの暑い中、会堂のない小さな町では日差しを避けるイチジクの木の下が教師からの学びを受ける学び舎でした。彼がその木の下にいたということは、彼が熱心に律法を学んでいたということを意味するのです。イエス様は馬小屋に生まれ、洞窟に過ごし、そして十字架に死んで、石をくりぬいた墓に葬られました。この主に来て、見たいのです。

 

◇2026年7月19日 ヨハネ1:19-34 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
洗礼者ヨハネが何度も「あなたは誰ですか」と尋ねられています。祭司長、レビ人たち、パリサイ人が彼のもとへ行き、キリストか、エリヤか、それともあの預言者かと、過去の偉人の再来かとしきりに聞きましたが、彼はその問いに明確にいいえと答えました。
並びいるお歴々の人たちが「あなたこそ偉人に違いない」と言ったとしても、ヨハネはそれを意に介せず、何者でもない、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である…あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」と
言うのを聞くのは痛快です。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」と、ただイエス様に栄光を見出し、自らをひけらかさないその姿は、すべての新興宗教の教祖たちに見せたい姿です。いや、それは私たちも見習わなければならない姿です。
聖霊によってバプテスマを授けてくださる方。水で洗っても洗っても汚れる私たちのために命による贖いをなし、実に聖霊が宿るようにしてくださったイエス様の救いのゆえに、膝を屈めてわが主と礼拝を捧げようではありませんか。

 

◇2026年7月12日 ヨハネ1:14-18 「父のふところにいるひとり子なる神」 「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」 神のひとり子イエス様が世に遣わされたということは、神様の恵みの大きな現れでした。 それは完全なる恵みであり、真実でまことなる、現実のものです。 「めぐみにめぐみを加えられた」とは、恵みの代わりに恵みをもってという意味であり、恵み以外に与えられる選択肢は他にはないということを意味します。 イエス様を見ることは神様の栄光を見ること、そして神様の懐におられたイエス様を見ることは、神様を見ることに等しいのです。 

 

◇2026年7月5日 ヨハネ1:1-13 「光はやみの中に輝いている」 しばらくヨハネ福音書から御言葉を味わいましょう。 ヨハネはこの福音書の終わりの部分でなぜ彼がこの福音書を書いたかを述べています。 「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」 ふとへブル書10章の言葉が思い出されます。(新改訳) 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」 「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」との問いにイエス様はこう語られました。(ヨハネ6章) 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。…わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」このイエス様に焦点を合わせ、信じ進みましょう。 

 

◇2026年6月28日 使徒3:11-26 「イエスによる信仰が」 先週は、使徒行伝3章より、「美しの門」で行われたイエス様の御名による驚くべき癒しの出来事を読みました。 「『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。」 「彼の右手を取って起してやると」とありますが、この「起こす」とは、死者をよみがえらせるという意味をも持つ言葉です。生まれながらに罪に死に、暗闇に伏し、裁きを待つばかりの人間に、神様はまさにイエス様によって赦しと復活と永遠のいのちを約束してくださいました。罪の身から立ち上がり、神様を賛美して喜び踊って礼拝の宮に入るのです。 「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。」 人々は、自分の力こそが万能であり、自力本願の考えに支配されています。しかし私たちは自分の力や信心で自分をも他の人をも助けることはできません。「この人を、強くした」(16節)のは、他ならない神様の施しのお恵みです。 主のみ前から慰めの時が来て、ただその恵みによって立ち上がらせていただくのです。 

 

2026年6月21日 使徒3:1-10 「イエス・キリストの名によって歩きなさい」 「美しの門」。別訳すれば、「魅力的で、喜ばしく、嬉しい、有難い、願ったりの門」。 きっとそこは人気の門であったに違いありません。多くの人が行きかうその人通りの多い場所に、生まれつき足の不自由な男性が、日々運ばれてきました。家族は彼を養いきれなかったのでしょうか。彼自身がそれを願ったのでしょうか。彼を運んでくれる人たちにも恵まれ、彼は毎日その門のところにいて、施しを求めていました。彼の家はどれほどの距離で、車いすなどもない頃、彼をここまで運ぶのはどれほどの重労働だったのでしょうか。運んでくれる人にお礼を支払ったのでしょうか。どんな人が彼を毎日運んでくれたのでしょうか。こうしているうちに、ペテロとヨハネが通りかかり、彼はいつものように施しを求めました。 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言い、 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロは言いました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 「彼の右手を取って起してやると、…彼は踊りあがって立ち、歩き出した。…神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。」 「歩きなさい」、これは人生を歩みなさいと言う意味をも持ちます。起き上がるとは、死から復活するという意味をも持ちます。イエス様の御名は私たちを罪から命へと導き、私たちが命ある人生を送れるようにと導くのです。 

 

◇2026年6月14日 使徒2:34-47 「そして一同はひたすら」 まさに今日も、私たちに必要とされているのがイエス様の証しです。聖霊がそのことを成してくださると信じます。 今日の箇所には目を引く3つの、ペアになっている語があります。それは、「心を尽くして…する、継続して…する、親しいお交わりを続ける」(42・46節)、 「事が起こる」(43節)、そして「毎日」(46・47節)です。 「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をして」いました。そこには心を尽くした、共に心を一つに親しいお交わりのうちにそれを成し続けたことが分かります。そこから「心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた」とありますが、そこにも深い献身と互いの親しみがありました。心を尽くし、継続して、その親密さをもって進む交わりは、どんどん発展していきました。 「みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。」そんな群れには敬虔なる恐れが生じ、その畏れを伴った祈りの群れには主の御業が現わされ、また畏れにつながりました。 そして「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし…」という民のため、「主は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」のです。 この「恵みのらせん階段」に感謝します。 

 

◇2026年6月7日 使徒2:24-33 「主はわたしの右にいて下さる」 ペテロの説教の続きです。前回ペテロはヨエル書を引き語りましたが、その引用されたヨエル2章はこのようなものでした。 恐ろしい終わりの日の裁きに際しても、「恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたから」、続けて「あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない」、そしてその後がペテロに引用された部分です。 「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた わが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。」そして、「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」との締めくくりでした。 イスラエルのうちに私がおり、聖霊が注がれ、その後に終わりが来るという順序です。 そして今日のお話ではダビデを登場させ、彼が苦しみの時に彼の遠い祖先であるイエス様を主と呼んで、「わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるから」と、主の苦しみと復活を預言して彼の慰めとしていたと語りました。このように、聖書は主イエス様を中心に描かれているのです。 

 

◇2026年5月31日 使徒2:14-24 「主の名を呼び求める者はみな救われる」 ヨエル書には神の民への恐ろしき預言が書かれています。 「あなたがたはシオンでラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。 これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。多くの強い民が暗やみのようにもろもろの山をおおう。このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。」…こんな時どうしたらよいのでしょうか。 「主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」 「あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。」 

 

◇2026年5月24日 使徒2:1-13 「神の大きな働きを述べる」 主の復活から50日目、ペンテコステの日です。 「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」。主イエス様は不安がる弟子たちにいつも寄り添ってくださいました。 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。…聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」との主の約束は確かに果たされました。 主は弟子たちの見ている前で天に引き上げられ、ポカンと空を見続ける弟子たちに神様は天使を送って語られました。 「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」 そしてその日。「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」 「あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」と驚く人たち。 主は天に引き上げられていったその同じ有様でこの地に戻って来られます。私たちは聖霊により御力を受け、神様の数々の大きな、偉大な働きの数々を救われる民のために主の再臨の時まで導かれて語らせていただきたく願います。 

 

◇2026年5月17日 ガラテヤ6:11-18 「イエスの焼き印を身に帯びている」 ガラテヤ書もついに締めくくりとなりました。 口述筆記を用いて手紙を書くこともあったパウロが、この最後の箇所では自筆で書いています。それも大きな文字で。 律法を重んじる人たちは自分のプライドや自己保身に生きていて、体裁ばかり整えるのが上手で、人を利用するのも上手で、自分自身のことばかりに興味があっては律法に対しては無知であるとパウロは語り続けました。 「キリスト・イエスにあっては、…尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」 「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」 「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって…もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」 「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように…わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている」

 

◇2026年5月10日 ガラテヤ6:1-10 「キリストの律法」 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである…わたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」また、「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」と前章にありました。 霊に生きるか肉に生きるかという時、いつもそこには対人関係の問題が横たわっていることに気が付きます。 律法に生きるという時、とかく個人の完成度を競うかのように思われますが、「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」とありますように、キリストは私たちを互いの愛に導き、律法であると語られます。 「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」とのことは、私たちがひたすら第一に教会での人間関係に気をつけなさいと教えているのです。

 

◇2026年5月3日 ガラテヤ5:16-26 「共に十字架につけてしまった」 主の復活からペンテコステの間の時期を過ごしております。 先週の箇所にこのような聖句がありました。 「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」 聖霊の助けにより、信仰によって義とされる。私たちの理解や行いを超えて、聖霊に信じ従おうとする私たちには、スケールを超えた神様の御業が現わされるのです。 「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(2コリント3章) 「見よ、すべてが新しくなった」(2コリント5章) 主の恵みに感謝いたします。 

 

◇2026年4月26日 ガラテヤ5:1-15 「愛をもって互に仕えなさい」 「堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。」 パウロはかつては律法を追求する者でした。しかし彼の歩みは間違っていました。 パウロは、自分の人生が律法を守り行うかどうかという自分の行動にかかっているのではなくて、律法を守り切ることの出来ない自分自身のために代わりに死んでくださったキリストイエスにかかっているということを悟りました。 「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」 信仰によって義とされる望み、愛によって働く信仰だけが尊いと、二度「信仰」という言葉が出てきます。 信じるという行為にもいろいろとありますが、私たちの信仰は聖霊によって、希望によって導かれ、守られており、そして愛によって守られ、愛の実践という強力な真理によって守られているのです。ここにとどまりたく願います。 

 

◇2026年4月19日 ルカ24:36-53 「どうして心に疑いを起すのか」 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。確かに旧約聖書にはイエス様によって成就した事柄がたくさん記されています。 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」(イザヤ53章) 「地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う」(詩篇2) 「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(詩篇16) 「主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。」(詩篇34) 「主はわが主に言われる、『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』と」(詩篇110) 「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった」(詩118) 「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。」(ミカ5章) 「主は、ふつかの後、…生かし、三日目にわたしたちを立たせられる」(ホセア6章)

 

◇2026年4月12日 ルカ24:13-35 「目が開けてイエスであることがわかった」 「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい」まさにこの御使いの言葉は私たちの人生の至言です。 『主は今生きておられる。』あの讃美歌が思い出されます。 「思い出しなさい」。 私たちは御言葉を安易に忘れ去ってしまいます。そして途方に暮れ、おろおろし、取り乱し、希望を失い、心配するのです。主はもう勝利しておられるのに。私たちにも勝利の主は共におられるのに。私たちは常に悲観的で、恐怖に閉じ込められて主の栄光を見ることが出来ないのです。 エマオの途上の二人の弟子たち。彼らもまた最近起こったことが摩訶不思議で到底理解できず、道々議論を尽くしてはため息をついていました。 「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけてい」たのに。 頼みの綱も取り去られ、いったいどうしたらいいのだろうと立ち尽くす二人。そしてそんな弱々しい弟子たちの行く道を共に歩いてくださる主。主は道々御言葉を説明して下さいました。 その「説明する」という語と、「目が開く」という語は同じ言葉が使われています。 「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」私たちが開眼し希望に生きる道がここにあります。

 

◇2026年4月5日 ルカ24:1-12 「必ず三日目によみがえる」 イースターおめでとうございます。主のご復活のゆえに神様をあがめます。 今日の箇所ほど、はっきりと私たちに御言葉を信じてそれに従って生きることの幸いを語っている場所はありません。 私たちは主のお語りになられたことを容易に忘れる存在であることが書かれています。そればかりか、御言葉を聞いてもそれが愚かな話のように思われるという、受け止める私たち自身の無理解や怠慢と傲慢が現れています。 「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」 「主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれている」人々の心。御言葉にはすべて語られていたのに、それを忘れ、それを大切にせず、聞き従わず、人は結局には途方に暮れるのです。 「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。…人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」 必ず罪人たちの手に渡され、必ず十字架につけられ、必ず復活する。 「なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」。イエス様は、死人の中にあって生きているお方です。罪人らの手にかかって必ず十字架の苦しみを受けるが、必ず死ぬが、必ず復活する。私たちも罪の世の中で苦労をし、傷つけられても、必ず復活するのです。

 

◇2026年3月29日 ルカ23:26-49 「何をしているのか、わからずにいるのです」 今週は受難週です。今日の箇所には主が十字架におかかりになられた出来事があります。 何度も人々は主をあざけり、嘲笑し、馬鹿にして言います。 「神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。しかしイエス様が十字架に就かれ、あえて自分を救わずに世の罪を取り除くことが神様の御心でした。しかし人々にはそれが分かりませんでした。しかし私たちのため、主はこう祈り、贖いの羊となられました。 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」 聖歌「君もそこにいたのか」 君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき ああ何だか心が震える 君もそこにいたのか 君も聞いていたのか 釘を打ち込む音を ああ何だか心が震える 君も聞いていたのか 君も眺めてたのか 血潮が流れるのを ああ何だか心が震える 君も眺めてたのか 君も気がついたのか 突然日がかげるのを ああ何だか心が震える 君も気がついたのか 君も墓に行ったのか 主をば葬るために ああ何だか心が震える 君も墓に行ったのか 

 

◇2026年3月22日 ルカ22:54-71 「主は振りむいてペテロを見つめられた」 「だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」(53節)。 夜の暗闇に紛れてやみの働きが進んでいきます。暗躍です。 イエス様は引かれていき、ペテロ以外の弟子たちは散り散りに逃げ去りました。 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく…『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。」(マタイ26:31)とのイエス様の言葉の通りとなりました。 そしてペテロにもその時はやってきます。 「この人もイエスと一緒にいました」「あなたもあの仲間のひとりだ」「たしかにこの人もイエスと一緒だった」。 イエス様のそばを離れずに、誰よりもイエス様のおそばに共にいて共に時を過ごしたペテロ。漁師の網を捨てて従って以来、彼はイエス様の教えと奇跡の業に心の底からの信仰を抱いて「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」とまで言ったのに。 「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」 「主は振りむいてペテロを見つめられ」ました。それは非難の眼差しではありません。 意を決しても腰砕けになる弱い私たち。しかし私たちには主の優しい視線があるのです。 

 

◇2026年3月15日 ルカ22:24-34 「あなたがたの中で、給仕をする者のように」 「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている」 王とは強くあるべきというイメージがあります。君臨し、権力をふるう。上から支配し、厳しく命令し、押し付け、頭ごなしに指令し、決定づける独裁者、威圧的で横柄な人という形です。一番上に立ちたいということは得てして自分の意見が絶対であるべきという考えに結び付いています。 「かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」 新顔で最も若輩者。一番偉い人と言ってしまえば最終決定者であり、リーダーであり、責任者ですが、その人にはいちばんの若輩の新顔であれと言われています。それで組織を束ねることが出来るのでしょうか。 「指導する人(リーダー)」との言葉があります。先ほどの異邦の王たちとの複数形ではなくて単数形で書かれています。たった一人のリーダー。ここでとっさに私たちはイエス様を思い浮かべるのです。弟子たちの間でイエス様に勝る指導者がいるでしょうか。イエス様は今も、昔もたった一人のリーダーです。そのお方の場所を占めようとするのはサタンの試みです。私たちはいつもイエス様を思い、自分は最も年若いものだと思う。そして驚くことにイエス様も神様の前で人の前でそのように過ごされたのです。ここにリーダーの見本がおられます。

 

◇2026年3月8日 ガラテヤ4:21-5:1 「自由の女の子は約束によって生れた」 アブラハムの妻サラの女奴隷のハガルのことが出てきます。 子を宿すことが出来ないのを見てサラは自分の女奴隷のもとに子をと願います。こうして与えられたのがイシュマエルです(創世記16章)。しかしそうはいってみたものの、子を宿したハガルは主人のサラを見下げるようになり、確執が起こります。 その後神様のくすしき御業により100歳のアブラハムと90歳のサラの間に子が生まれます。こうなるとハガルもイシュマエルも居場所がありません。しかし家を出ていく彼らを神様は守り、イシュマエルから出る子を一つの国民にしてくださいました。それが現在のアラブ民族です。イスラム教を創始したムハンマドはこのイシュマエルの子孫にあたると言われています。 今日の箇所にもイサクとイシュマエルのことが出てきます。イスラエルの人たちは自分たちは「生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」と言っていました。しかしパウロはこう言います。「女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。…ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす」…肉によって、自分の努力によって救われるのではなくて、約束の契約によって救われるとパウロは語るのです。 

 

◇2026年3月1日 ガラテヤ4:8-20 「あなたがたの内にキリストの形ができるまで」 先週の箇所には、「わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった」とあり、今日の箇所でも、「あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。…どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか」と語られています。 パウロは「兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから」と語っています。 パウロが「私のようになってほしい」というのはどういう意味でしょうか。 「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」 「たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう」(ピリピ2章) パウロは自分のことなど考えてはいません。自分の名誉とか、功績は眼中になく、「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(1コリント9章)と言っています。「最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたため」。彼にとって生きる事はキリスト、捧げる生涯でした。

 

◇2026年2月22日 ガラテヤ4:1-7 「あなた方は子である」 先週の水曜日から受難節に入りました。「いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた」、罪の奴隷となっていた私たちを御子のあがないによって救い出してくださいました。コロサイ1章にこうある通りです。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」 イエス様もヨハネ8章にあるようにこう語られました。 「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 この「自由」という言葉に律法学者たちは反発しました。 「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」、そしてイエス様は語られました。 「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」 イエス様はゲッセマネの園で苦しみながら「アバ、父よ」と祈られました。そしてその贖いのおかげで私たちも子とされ、父なる神を「アバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。

 

◇2026年2月15日 ガラテヤ3:15-29 「キリストに連れて行く養育掛」 「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」と語られたように、神の民イスラエル・ユダヤ人の誇りは絶大でした。しかしパウロは、神様は「アブラハムに、『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告した」と語ります。 イエス様はサマリヤの女性に言われました。「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 ヨナ書に「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」とあるように、ユダヤ人だけが救いに関してすべてであると語っておられるのではありません。すべての人は罪人であり、律法を成し遂げることが出来ず、ただ主の十字架のあがないによって義とされ、感謝をもってイエス様の御名により神様に呼ばわるのです。

 

◇2026年2月8日 ガラテヤ3:1-14 「祝福が異邦人に及ぶため」 パウロに神様は人間の歩みのいかに誤りの多いかを示されました。ユダヤ人たちはこう信じていました。「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」(ガラテヤ2:15) それが神に選ばれた民、律法の民。神に選びだされ、神様の栄光を現わす民。しかし旧約聖書に描かれている通り、イスラエルは、ユダヤ人は神に選ばれた民ではありながら、世界の模範としての民ではありませんでした。「義人はいない、一人もいない」と書かれている通りです。 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」、これがイエス様が与えてくださった新しい契約です。古い契約を無効にされたのではなく、律法を守ることによって義とされるに人は本当に力ない存在であるが故の唯一の救済措置でした。 しかし人は律法を守ることによって義とされる道をあきらめず、自分は大丈夫だと高をくくっています。そして時の祭司長も律法学者たちもイエス様を十字架につけるという大罪を犯しました。 救いはユダヤ人のためのものではなくて、全世界の民のものであるということは当の昔にアブラハムに語られていたことなのに、それなのにユダヤ人たちは特権階級でいたがりました。彼らは異邦人を罪びと呼ばわりしましたが、自分たちもまたそうであることに目をつぶっていたのです。主の恵みに目を留めましょう。

 

 ◇2026年2月1日 ガラテヤ2:11-21 「わたしのためにご自身をささげられた神の御子」 「わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないため」、「わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった」。 パウロは福音の真理を巡って戦っていました。もはや二度と人をとりこにする「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2:8)に捉えられることがないように、「人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によっ」て進み続けました。彼は「わたしが切実な思いで待ち望むことは…大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること…わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益」(ピリピ1:20-21)と言い、天で安息を得るまでは命がけで、死に物狂いでただキリストによって生き、キリストを現すことを願っていました。 「福音の真理に従ってまっすぐに歩」くということにおいて彼は妥協せず、彼は大先輩であるペテロに対しても、全く恐れることなく面と向かって反対し、抵抗しました。それは福音の真理に従って進み、とどまり続けることが生命線だとつくづく知っていたからです。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、…わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰による」キリストの贖いの死による「神の恵み」に感謝します。 

 

◇2026年1月25日 ガラテヤ2:1-10 「おもだった人たち」 あのダマスコ途上の劇的な回心から後、パウロが使徒としての活動をするに至って、ガラテヤ書によれば長い時が過ぎていたことが分かります。使徒行伝ではすっと書かれていることですが、パウロが何を重んじていたのかが分かり、興味深いです。 「異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した」…「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。 そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。」 「もう一つの福音」と語り、福音とは相容れないものがまことしやかにもう一つの福音としてはびこっている、それは異邦人に対して割礼を強いることであったことが分かります。それはユダヤ教からキリスト教への成長に向かって大切なことでした。パウロは教えの確かさ、福音の真理に立ち、二度と人による誤りによって教えが揺るがされないようにと努めたのです 

 

◇2026年1月18日 ガラテヤ1:11-24 「人間によるものではない」 「わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである」。前回の所にもこうありました。「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」。彼はどうしてかくも何度も同じことを強調するのでしょうか。 彼は熱心に教えに奉じるにあたって二度と過ちを犯したくなかったのです。これが真実だと信じていった先に、それが全くの嘘であり過ちであったという絶望を二度と味わいたくなかったのです。 本当にそれは信じられるのか。間違いないのか。人生を、命を懸けて従っていけるのか。今度は大丈夫なのか。彼はそれを徹底的に確かめようとしました。人に取り入ることもせず、距離を置いて観察し、そこに神様の働きがあるのか、人の意図でも人の努力でもなく、人のつながりによってのみ維持されているのでもなく、そこには確かに神様のお働きがあるのかどうか…。彼は徹底的にそれを見つめ、隠遁の後にペテロに会いました。彼もまた「神のことを思わず人のことを思っている」と主から叱責され、また3度までも主を否む失敗をしながらも主の恵みのうちに「岩」と呼ばれる者でした。かつての迫害者が帰られたことを主に讃美する群れの美しい姿にも目が留まります。 

 

◇2026年1月11日 ガラテヤ1:1-10 「キリストの僕」 今年の聖句を「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」に定め、ガラテヤ書から読み進めようとしております。 キリスト教とは何であって何ではないのか、書簡の冒頭からくっきりと描かれています。 「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」。ここに彼の出発点が明確に示されています。 パウロはかつて高名なガマリエルの弟子として名をはせ、キリスト教の迫害に奔走していました。 しかし主イエスキリストを迫害することに向かわせたその学びは間違いであったということ、そのことは彼にとっての大きな衝撃でした。もう二度と間違いのわだちを踏みたくない。彼は徹底的に事の本質を知り極めようとしました。 人が作り出した教えではなくて、人づてに手垢がついた人間本位に変質した教えではなくて、神様ご自身から手渡された源泉を手に入れたい。彼はその戦いを始めたのです。このことは私たちにとっても重要な意味を持ちます。キリスト教的なことを知るのではなく、キリストそのものを知るのです。何がキリストの教えであって何がそうではないのかをもう一度徹底的に調べ上げるのです。私たちはこの年の初めにまずそのことから始めようではありませんか。

 

◇2026年1月4日 詩篇1篇・ヨハネ3:16-21 「神にあってなされたことが明らかに」 詩篇1篇とヨハネ3章。いずれも悪しき者と正しい者の対比が描かれています。 詩篇において正しい者とは、神様の助言、忠告、目的を幸せと喜び、祝福と考える人たちであり、悪しき人の道に立たず、とどまらず、あざけり、傲慢に語る人たちのところに座らず、とどまり住むことはありません。なぜならば彼らにとっては主の教え、導きと指南とが喜びであり、心の恋い慕う願望だからです。彼は神様の教えを夜に昼に思い、口ずさみます。原語では「うめく」という語が使われます。 御言葉を思い、口ずさむということ、これは常に喜ばしく軽やかな口ずさみばかりではなくて、時にはうめきでもあるということ、それはどういうことでしょうか。 悪しき人の道に立たず、とどまらず、座り込んでとどまり、住むことはない。この表現は、その道にどっぷりと留まる事を指します。主を信頼する者にも、意図せずとも危険を横切ったり、その地に踏み入ってしまう危険があることを示唆しています。うめきもあります。混沌も迷いもあります。しかしうめきながらでも私たちは御言葉を口ずさみます。迷いの所、失敗の場所、疑いの地。そこにも救いが残されている。それが私たちの喜びです。一方悪しき人たちは迷いもなく流されて行きます。その道は滅びです。しかし神様はイエス様を通して滅びの道からの救いを与えてくださったのです。いつも光に向けて進みましょう。  

 

 

 


 

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