すべての説教要旨はこちら

すべての説教はこちら

説教要旨

◇2025年4月27日 ルカ24:13-35 「イエスご自身が彼らと一緒に歩いて行かれた」
先週は喜びあふれるイースター、主の復活をお喜びする日でした。しかし女性たちは生きている方を死者の中に探そうとしました、イエス様は確かに亡くなられて、その亡骸に香油を施そうと訪ねた女性たちからしたら無理からぬことですが、女性たちの、イエス様を死者の中に探す企ては失敗しました。そのことが無意味であることを天使たちははっきりと示し、主が語られた御言葉を思い出しなさいと言いました。
女性たちはそれと気付き、主の弟子たちのもとに戻り、事実をありのままに話しましたが、果たして弟子たちはそれを愚かな話、たわごと、ナンセンスで空虚な話と決めつけて信じませんでした。
私たちは見るべきものに目を留めず、思い出すべきものを思い出さず、信ずべきものを信じることが出来ず、ナンセンスと決めつけて信じずに、しかし途方に暮れ、説明も出来ず、困惑するのみです。しかしそんな不毛な議論に明け暮れる者たちに近づき、寄り添い歩き、御言葉を熱心に解き明かして信仰へ、希望へ、勝利へと導いてくださる主が共におられるという事を知るとき、私たちの心はまさしく燃えるのではないでしょうか。
「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入る」。私たちはこの主イエス様を見失わないようにしたいと思います。ですから私たちもまた困難を恐れません。私たちが主の苦しみに会うとき、主の復活にもあやかれると信じるからです(ローマ6:5)。

 

◇2025年4月20日 ルカ24:1-12 「なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
子羊の血を塗った家に死が過ぎ越す出来事を見ました。そして荒れ野を行く民に天からマナが降りました。
イエス様は最後の晩餐で、パンを取って「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」と語られ、ぶどう酒を取って「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と語られました。
またイエス様はこうも語られました。「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。…わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」
イエス様はそのお体をも血潮をも、ご自分の命を明け渡され、十字架に死なれましたが復活されました。
アンパンマンが自分の顔を人に食べさせて力無き者となりながらも、新しい顔を得て元気百倍に新たに立ち上がるように、イエス様は復活なさいました。私たちはそんなイエス様と共に生きているのです。

 

◇2025年4月13日 ルカ22:7-34 「わたしの血で立てられる新しい契約」
いよいよ受難週に入りました。今週の金曜日は受難日です。先週は出エジプトの出来事を読みました。主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている」と語られました。
時は過ぎ、主イエス様の時代、過越の祭りの時期が来ました。今日もユダヤ人たちは過越の食事をしますが、苦菜と種入れぬパンと共に子羊の骨付きローストを食すのですが、この子羊の料理が犠牲の子羊を象徴するとのことで、民がエジプトを脱出した今日では、家の鴨居に血を塗ることまではしないようです。
イエス様は屠られる前の日の夜、最後の晩餐をしましたが、そこでパンとぶどう酒を弟子たちに与え、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」、そして「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と語られました。
私たちの主イエス様はそのお体を私たちの罪のためのいけにえとしてささげ、その血潮をもって私たちを罪と死の呪いから救い出すために、罪と死からの出エジプトを果たすために新しい契約を、その血潮をもって与えてくださいました。その御身体と血潮の捧げものによって私たちはもはや鴨居の血を捧げる必要なく死からの過越を頂くのです。この血潮がなければ私たちを罪から救うものはないのです。

 

◇2025年4月6日 出エジプト記12:1-32 「これは主の過越の犠牲である」
シナイ山にてモーセに主なる神様は現れ、彼に使命をお与えになりました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し…」しかしモーセは初めにはためらい恐れて言いました。「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」そこで神様は言われました。
「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」
そして彼はついにエジプトの王の前で「我が民を去らせよ」と語ります。
心をかたくなにするエジプトの王を前に神様は九つの災いを下されます。
それでも王がかたくなであるのを見て主は初子の死を定められます。人の罪はどこまでも深くて底知れぬものです。まことに「罪の支払う報酬は死」です。しかし主は「これは主の過越の犠牲である」という子羊を用意してくださいました。主は重々しい人の罪のため贖いを用意して、その裁きから「イスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われた」のです。

 

◇2025年3月30日 出エジプト記1:1-2-10 「助産婦たちは神をおそれた」
あの幸いなヨセフ物語の結末を私たちは見届けました。しかしヤコブに神様から次のような言葉がありました。
「わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう」(創世記46:4)
こうしてエジプトに移住して約350年が経ち、ヨセフを知らない新しい王が即位しました。これはエジプトの体制が変化したことを指すのかもしれません。
ここからイスラエル人への敵視政策が始まりました。
「イスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった」この繰り返して描かれるイスラエルの繁栄は、神様が天の星のように、地のちりのように子孫を多くするとの約束の通りでした。
これを見てエジプト人はイスラエル人の上に重い労役を課しましたが、イスラエル人たちは苦しめられれば苦しめられるほどにいよいよ増え広がり、エジプト人たちはイスラエル人のゆえに恐れました。
そしてついにエジプトの王は助産師に命じて生まれてきたのが男の子ならば殺すように命じましたが、助産師たちは神を恐れるがゆえに命に従わず、彼女らは神様の恵みを受け、民は増え、非常に強くなりました。
後にモーセと名付けられる男の子も、愛と祈りの中、良きアイディアが生まれ、神様はそのすべてを守られ、いのちの道が開かれます。パロの娘の手を通して導かれたのは他ならぬ神様ご自身でした。

 

◇2025年3月23日 創世記44:12-45:28 「神は命を救うために私を遣わされた」
ヨセフの兄弟たちはエジプトの地で面倒に巻き込まれ、互いにこう語り合いました。「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」
あれから20年。人は蒔いたものを確かに刈り取らなければならないことが示されます。罪を隠しおおせたと思っても、絶対権力者の前に立たされ、罪科を償うときがやってきます。しかしヨセフは彼らにやさしく接しました。彼は雇人にこう言わしめました。
「安心しなさい。恐れてはいけません。その宝はあなたがたの神、あなたがたの父の神が…袋に入れてあなたがたに賜わったのです」(43:23)
そして彼は弟ベニヤミンをかばう兄ユダのこの言葉を聞きます。「どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください」
この言葉に、彼らが真剣に父と弟のことを思う気持ちを察し、ヨセフはこう語ります。
「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔む(責め合う)こともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」彼らの中に不和の芽を見ながらも、彼の心には赦しと祝福がありました。残虐な行いをも救いに変える主の慈しみの御業を畏れます。

 

◇2025年3月16日 創世記42:1-38 「確かにわれわれは弟の事で罪がある」
ヨセフ物語を読み進めております。ついにヨセフと兄たちが再会する場面です。
「ヨセフの兄弟たちはきて、地にひれ伏し、彼を拝した」ヨセフの見た夢は20年以上の時を経て、果たしてその通りになりました。
私たちは神様のなさることの遠大さにただ驚くばかりです。伝道の書の3章です。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。…神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」
ヨセフにとっては長い長い時の末に知らされた神様の御業の完結でした。同様に、神様はヨセフの兄たちの罪をそのままにはしておかれませんでした。
「彼らは互に言った、『確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ』」
私たちは全ての私たちの罪に対しての帰結を自分で刈り取らなければならないという恐れを抱きます。どうやって私たちは全ての罪の始末をすることが出来るでしょうか。ヨセフは王のように兄たちの前に君臨し、兄たちはひれ伏しています。報いを与える権威がヨセフにはありました。絶対的な権力者であられる天の父なる神様は私たちにどう報いられるのでしょうか。

 

◇2025年3月9日 創世記41:1-57 「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」
「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。これは直訳すれば「神様は貧しくみじめな土地で私に真実であられた(実を私に結んでくださった)」となります。ついについにヨセフの苦労は報われました。この栄光のために彼はここに運ばれていたのだという神様の解き証し、種明かしが実現しました。
エジプトの王パロは、「聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」と言いましたが、
ヨセフは答えてこう言いました。「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。
神様は平安をお告げになられるお方です。神様は幸せと健康、人生の完成をもたらしてくださるお方です。私たちの願いに応え、応答し、そうしてくださるお方であることを証ししてくださいます。それは人がもたらすことが出来るものではありません。
「さとく、かつ賢い人」とは誰でしょうか。
「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」…パロがいみじくも言ったように、それは神の霊に頼るもの。神様を恐れ、仰ぎ、信頼し、従う者にこそふさわしいのです。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8:28)

 

◇2025年3月2日 創世記40:1-23 「解くことは神による」
「わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。
切実なヨセフの叫びです。兄弟たちの仕打ちにより穴に落とされ、奴隷商人に売り飛ばされ、ポテパルのもとで成功しかかったのもつかの間、えん罪でまたも地下の獄屋へ、低い低い穴倉にまたも転落させられるとは。どうしてかくも悲運が続くのか。もがくような苦労の末のせっかくの救いの糸口は、どうしてかくももろく自らのもとから取り去られていくのか。
穴へ穴へ、低きへ低きへ、絶望へと、数奇なる彼の人生はどうしてかくもうまくいかないのでしょうか。故郷の優しいお父さんの姿を思い出して彼は幾度牢の中で涙したことでしょうか。
しかし彼は王の囚人をつなぐ獄屋で、王の高官たちと話し、彼の将来の準備をここで、彼の屈辱の牢の中で得ることになります。その牢の中で、ヨセフは二人の人から夢の話を聞きます。そして彼は言いました。「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」
いみじくも彼が言った言葉、「解くことは神によるのではありませんか」という言葉の通りに彼の人生も導かれて行きます。私たちにはわからない謎が多いのですが、解き明かすのは私たち人間がするのではなく、神様のなさることです。神様は全てのことを相働かせ最善になさるお方です。

 

◇2025年2月23日 創世記39:1-23 「主がヨセフと共におられた」
父の溺愛を受け、他の兄弟たちの嫉妬を買うヨセフ。そしてついに親の目を離れたドタンの地で辛うじて殺される事だけは避けられましたが、ヨセフはエジプトへ奴隷として売られることとなりました。
「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。
様々な手の働きによって翻弄されるヨセフでしたが、神様は彼と共に、彼の近くに、ご一緒にいてくださいました。
その幸運と、主が彼と共におられ、彼の手のすることを主が栄えさせられるのを見て、ヨセフの主人は彼にすべてを任せ(与え)ました。
しかしポテパルの妻の虚偽により、主人は彼を牢に投げ入れ(与え)ます。
折角売られていった地で得た千載一遇のチャンスを、自分の落ち度でないことのゆえに失い、また暗闇に逆戻りするという事は、ヨセフにとってどんなに痛手だったでしょう。
しかしそれでも、その場にも主は彼の近くに、彼と共におられ、神様は看守長の好意を彼に与え、看守長は全ての囚人と、看守長の仕事とを彼に委ね(与え)ました。
神様はヨセフと共におられ、彼の手の業を祝し、導き、恵みと導きを絶えず与えてくださいました。
神様はヨセフと共におられ、彼を栄えさせられました。
神様は私たちのそば近くにおられ、私たちを祝し、私たちに良き働きを与え、手の業を祝し、栄えさせてくださることを信じましょう。

 

◇2025年2月16日 創世記37:1-30 「ヨセフを彼らの手から救いだして」
神様と顔と顔とを合わせて格闘し、神様ががっぷりと相対してヤコブの悩みと恐れとに向かってくださいました。「私を祝福してください」彼の強い願いは通じました。しかしそれは彼の勝利ではなくて、「神は勝利される(=イスラエル)」という出来事でした。兄のかかとをつかみ、長子の権利をかすめ取ろうとする彼の野心は打ち砕かれ、勝利者である神様の陰に隠れて祝福を願う信仰の人と作り替えられました。そして今一度ベテル(=神の家)にて彼は一家の偶像を捨て去り、「わたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」と語り、主を礼拝しました。かつてはそこを未だ知れぬ所へ出ていく際の神様の守りを自分につなぎとめるための祭壇のような意味合いでしたが、今は違います。確かに守ってくださった神様への感謝と信頼と従順のしるしとなりました。
そして彼の12人の息子たちの物語が始まります。
今は亡き最愛の妻ラケルとの子ヨセフに上等な長衣を着せる父ヤコブのヨセフびいきに、他の兄弟たちは憎しみを増し加えていました。そんな中の彼の見た夢。兄弟たちは殺意を抱き、野を歩く彼を手にかけようとしますが、彼を守ろうとする長子ルベンと、後に家督を継ぐユダとによって辛うじて命は救われますが、奴隷として遠くに売られる身となりました。しかし巡り巡って民族をエジプトに導くことになろうとは、だれが想像できたでしょうか。

 

◇2025年2月9日 創世記32:9-32 「あなたを去らせません」
「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。兄エサウのかかとをつかんで胎から出てきたヤコブらしい、神様への言葉です。
彼は人を押しのけ、兄エサウの長子の特権を自分のものとしました。そして彼は夢の中で天からのはしごを見たときに、神様に「わたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」との言葉を語りました。それから彼は母リベカの兄ラバンに会います。ラケルをめとりたいと思いつつも姉からめとりなさいと言われ、計14年叔父に仕えるヤコブ。そして姉と妹の子作り競争が始まり、代理戦争にも似て二人の女性が加わり、今度はやがてその子たち同士の確執が生まれます。
ヤコブのゆえに神様はラバンの家を祝され、そのことを知るラバンは彼を手放そうとはしません。そんな中、あなたの先祖の国へ帰りなさいとの神様の言葉により歩を進めますが、その行く手には兄エサウがいます。
父イサクのたどった道のり、母リベカ、そしてエサウとヤコブ、叔父とその娘たち、様々の出来事が重なり、成功や祝福や神様の言葉による導きを得て、ヤコブのエサウとの再会の恐れの中、神様は彼の前に現れ、彼の全存在を身体で受け止めて彼の格闘の相手になってくださいました。神の家、神の顔。神様はどれだけ私たちと共におられ、受け止めて祝してくださるのでしょうか。

 

◇2025年2月2日 創世記28:10-22 「一つのはしごが地の上に立っていて」
先週の箇所からだいぶ飛びまして、ヤコブと主の梯子のお話となりました。アブラハムによって祭壇に捧げられたイサクでしたが、しっかり者のリベカと結婚します。子であるエサウとヤコブに恵まれますが、両親の思惑の違いも手伝って、長子の権利を与える時に大変な波乱が生じます。兄の殺意を知って逃亡する弟ヤコブ。その荒野の道中で、主は彼に語り掛けられます。
日本語には訳されていませんが、「見よ」との言葉が12節に2回、13節と15節に1回ずつあります。「見よ、はしごが据えられている。」
長子の権利をだまし取って命を狙われて逃亡の身となったヤコブですが、神様は彼のために天からのはしごを下ろされました。その事実を見よと聖書は語ります。はしごは据えられました。「はしごを外して孤立させる」ということわざがありますが、神様は失敗し、罪を犯し孤立している者にはしごを据えてくださいます。そして「見よ」、天からの使いがそのはしごを上がったり、下がったりしています。天使は初め低いところに、私たちと共にいて、まず上がり、そして神様の命を受けてまた降りてきます。ここにもイエス様のお姿を見ます。
「見よ」「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行う」 私たちは見るべき事を知ります。ここは神の家です。

 

◇2025年1月26日 創世記22:1-14 「主の山に備えあり」
17章にて、わが子の誕生のお告げを頂き、どうして百歳の自分と九十歳の妻のもとに子が生まれようかと笑い、妻もまたその知らせに苦笑したのでした。しかし果たして神様のおっしゃったとおりにイサクが生まれました。神様は人知を超えた御業を昔も今もなさるお方です。
そしてその折角授かった愛息を全焼のいけにえとしてささげよとのお告げがあります。何という残酷なお告げでしょうか。ここに来て、喜んで育てたわが子を屠れとは、子孫を増やすために子を与えられたのに、その言葉は嘘だったのかと、耳を疑う神様の言葉でした。「神はアブラハムを試みて彼に言われた」。どうして神様は彼を試す必要があったのでしょうか。神様はご自分のみ告げを一笑に付した彼への意趣返しをしようとされたのでしょうか。
しかし彼はここで何の不服も表わさず、何の問いかけもせず、翌朝早く起きて黙々とその命令に実行しようとします。そしてそのいけにえの場所に着き、息子を縛って薪の上に置き、イサクも従います。
しかし神様はイサクに危害を加えることをお許しにはなりませんでした。
「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」そしてイサクの代わりに一頭の雄羊。これはまさに私たちのために身代わりのいけにえであるイエス様をくださった神様の物語なのです。

 

◇2025年1月19日 創世記15:1-21 「わたしはあなたの盾である」 「あなたは…わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」との神様の言葉を受け、アブラムは75歳にして新たな出発をしました。その後飢饉を避けてエジプトに入り、妻サライをめぐっての出来事があったり、周辺の王たちによるロトの襲撃への奪還劇などがありました。 主は「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と語られましたが、彼にはその報いを受け継ぐべき子がいませんでした。 主なる神様は言いました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい…あなたの子孫はあのようになるでしょう」ルカ福音書のザカリアを思い出します。 「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」信仰による義というテーマは、もうここに現れています。「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」アブラムは主を信じたと聖書は語りますが、それでもアブラムはしるしを求めました。神様は600年以上も後の出エジプトのことまで語られ、彼の子孫のための贖いによる救いを示されます。まことに、「主はわが盾」です。

 

◇2025年1月12日 創世記12:1-8 「わたしが示す地に行きなさい」 新たな年となりまして、1月も、はや半分が過ぎました。 大変に寒い日々が続いております。お元気にお過ごしでしたか。 先週は年初とのことで創世記1章から御言葉を味わい、今日は創世記12章、アブラムが75歳にして神様の示す地に出発した出来事を読み進めてまいりましょう。 思えば、アブラムの父テラは、アブラムとその妻サライ、そして孫であるロトを連れて、ウルからハランまで、1000km以上もの距離を移動し、そこで亡くなりました。 神様はアブラムに、さらに800キロメートル離れたカナンへの移動を命じられます。父との別れの地を去り、もうこれ以上は移動したくないという親族もいたのかもしれません。神様は「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と語られました。 心細い小さな集まり。しかし神様はこう約束なさいました。 「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」 神様は小さな民を偉大にし、祝福し、全世界への祝福の基となさいます。私達日本のクリスチャン、そしてこの教会の私たちは小さい群れかもしれませんが、神様が偉大にして祝福のもといとするとの御言葉を噛み締めましょう。私たちはいつも礼拝の場に戻り、祈りと心を捧げて主を待ち望みます。 

 

◇2025年1月5日 創世記1:1-5 「神はその光とやみとを分けられた」 新年のご挨拶を申し上げます。 年の初めに天地創造の聖書の箇所を味わいましょう。 「はじめに神は天と地とを創造された」。ここには何も神の起源については記してありません。神様は永遠の昔からおられ、これからも永遠に生き続けるお方、世界の創造の起源であるお方です。ここには「天と地」、「闇と光」、「昼と夜」、「夕と朝」という対極が列記されています。 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり…」ここには、原初世界の空虚と混沌、無為と寂しさとが満ち、従ってそれはすなわち闇であったと記してあります。そして、底知れぬ水、底が見えない深淵、地獄のようなどん底の表面に不気味に暗闇が覆っているのです。何という恐ろしい原初世界なのでしょう。そこは光明も命もない世界なのです。 そして、従って、それから、神の霊(息)はその深淵の水の上をホバリングするのです。舞い駆けて巡るのです。親鳥が巣の卵やひなを気にかけて、寵愛して羽で新鮮な風を送って温度を調整して生きる環境を整えるように、聖霊が駆け巡っていました。 ついに神様は「光あれ」と言われ、光が出来ました。そして、従って、神様は光と闇とを分けられたのです。闇は光から隔絶されました。深淵の混沌も、茫洋とした世界も、空虚さもむなしさも、光の後に隔絶されました。ここに光として、人の命として来られたイエス様の贖いを見ます。 

 

 


 

バナー
お問い合わせ
メールのお問い合せ
牧師→
教会→
アクセス数